東洋文庫の北斎展

 一週間どこにも行かないだけで、随分と長い間博物館に行かなかった気がする。友人宅で催される鍋パの夜に合わせて近場の展覧会を見に行くかということで、14日土曜日に東洋文庫ミュージアムに訪れた。一時期は展覧会の度ごとに行っていたほどだが、最近はご無沙汰だった。曲がる所を間違えることも無く、駒込駅からすんなりと到着。ああ、複数言語が綴られた入口も懐かしい。ぐるっとパスの該当ページのチケットを切ってもらい、シールを胸に貼って入館。そういえばこんなシステムだったね。

 

 まずはオリエントホール。「葛飾北斎が生きた時代」というテーマで、18世紀後半から19世紀半ばという北斎の生涯(1760-1849)の時期に、日本と世界はどうだったかを資料の展示と共に解説していた。日本は言わずもがな江戸時代。西欧はフランス革命からナポレオン戦争。中国・インドは帝国の最盛期からの下降期。高校時代に学んだ世界史は中世以前で止まっているから、この程度の時代感覚すら怪しい。いつか勉強せねばと思い続けて結構な歳月が過ぎている。来年の目標にするか?

 北斎と同年の1760年生まれの人物として、志筑忠雄、嘉慶帝華岡青洲、アクバル2世が挙げられていた。この時代の日本で、まして庶民の葛飾北斎に同年生まれという概念を適応することに意味はそこまで無いとは思うが、まあ時代イメージということで。Wikipediaを見た所、『甲子夜話』で知られる肥前藩主の松浦静山も同年生まれらしい。彼らにまつわる資料が展示されていたが、最初の志筑忠雄の『異人恐怖伝』のインパクトがすごい。エンゲルベルト・ケンペルの『日本誌』を志筑が訳した物で、日本の外交政策を訳した部分が「鎖国論」としていわゆる「鎖国」という言葉になった訳だが、展示されていた該当ページが興味深かった。展示説明によるとケンペルは日本の外交政策を肯定的に記していたとあるが、志筑によって訳された展示資料から読み取れる内容は明らかに違う。天の理としての友好や通交に背く国として日本の外交政策が記され、恐ろしい国として記されている。展示説明にあるように、西洋から畏怖された日本像を日本人に示した物だとすると、現代の思想が強い啓蒙書のような物になる。

 同年生まれ人物資料の次は、同年代の世界資料。展示されていた年表にせよ、要は江戸時代に世界がどうだったかというだけの話で、北斎とはそこまで関係は無い資料が並ぶ。東洋文庫らしい展示ではある。ゴンクール兄弟による『マリー・アントワネットの物語』や『ハワイ語辞書』などバリエーションは様々で、最後に『共産党宣言』の最終ページが開かれて展示されていたのは思わず笑ってしまった。萬國のプロレタリヤ團結せよ!

 

 東洋文庫ミュージアムおなじみの広開土王碑拓本を一瞥し、「東洋文庫×修復のお仕事展」のパネルを見ていく。これは企画展と特に関係はない単発の展示。和漢書・洋書・東洋書画・写真の修復方法の説明と修復道具が展示されていた。東洋文庫が開館した頃から修復は気を配ってきた分野だそうだ。研究資料として、在りし歴史の証拠として、永く保存・使用されねばならない物なので、携わっている方をただただ尊敬する。資料を扱う際には気を遣っていかなければ。

 

 階段を上がり、東洋文庫ミュージアムを象徴するモリソン書庫の本棚に迎えられる。この光景は何度見ても圧倒されるし、このような本の山の中で生きていきたいという憧れに包まれる。今回は「世界から日本へ、日本から世界は―日本を訪れた外国人、海外を旅した日本人の記録」ということで、『天正遣欧使節記』や『ペリー提督日本遠征記』、『日本奥地紀行』が展示されていた。

 

 さらっと通り過ぎて名品室へ。東洋文庫の名品が展示されている一角で、今回は国宝の『文選集注』がトップを飾る。『源平盛衰記』、『テュルク諸語集成』、『日本幽囚記』、『ペリー久里浜上陸図』などを目にした。毎度毎度の『解体新書』ゾーンをスルーしていよいよ本筋の葛飾北斎の展示に改めて入っていく。

 

 最初の解説パネルによると、世界的な北斎知名度の淵源は江戸時代終りに日本を訪れた外国人の紹介らしい。1830年代にオランダ商館員のフィッスヘルや商館医のシーボルトが自著の挿絵に北斎の絵を借用したことに始まり、幕末の訪日外交官や使節団の報告書において、日本の風俗や歴史を伝えるために北斎の絵が借用されたことが大本の始まりとのこと。外交官側が画家を連れて描かせていくよりも、現地である日本人が描いた絵画が都合がよかったのだろうなあ。そして、北斎の絵画は1867年のパリ万博で多くの人の目にする所となったらしい。ということは、当時の世界における江戸時代のイメージの一端は葛飾北斎の絵画世界になるのだな。写真が普及する以前だし、それは我々現代が江戸時代像を探るイメージの一角を担っていることにもなる。

 最初に展示されていたのは、飯島虚心による北斎の伝記『葛飾北斎伝』。北斎を知る人の聞き取りや関連資料をまとめた書物で、今なお北斎研究の基礎文献となっているらしい。その後は、『北斎漫画』や『北斎画譜』から採られた図版が掲載されている資料が続いていく。日本美術を西洋で初めて総合的に紹介した『日本美術』のキャプションにあった、著者のルイ・ゴンスが庶民絵師・葛飾北斎を日本最高の画家と絶賛したのに対し、古典や伝統を重んじたフェノロサが彼を激しく批判したという記述が面白かった。フェノロサの日本美術の立場はそうだったんだね。ここのエリアで一番驚いたのは、1896年に刊行されたエドモン・ゴンクールによるフランス語の北斎の伝記『北斎』。葛飾北斎の死から50年も経っていないし、上記の『葛飾北斎伝』の刊行からわずか3年しか経っていない。巻末には主要作品目録が掲載されているのを含め、当時のフランスにおいて北斎という存在がいかに大きかったかが窺える。世界的なアーティストじゃないか。

 

 クレバスエフェクトが印象的な回顧の道を通ってもう一つの企画展示室へ。あまりに小規模なため、クレバスエフェクトはそこまで恐怖を感じないんだよな。もう一つの企画展示室は、葛飾北斎の生涯のそれぞれにおける画業を見て行く展示で、いわゆる北斎展と言った場合に思い浮かべる展示だった。勝川春章の弟子となり、春朗という名で手掛けた画家デビュー間もない頃の時期の作品から展示が始まった。師の春章は人気役者のブロマイド絵を手掛けた画家で、展示されていた『錦百人一首あづま織』は同種の定型的な書き方をなぞらずに立ち姿や動きのあるポーズを取り入れ、表情も含めて各々の個性を出した作品らしい。ここで展示されていた北斎の作品も人物絵だった。次のエリアは狂歌絵本に載せた挿絵を手掛けていた時代の展示。最初に展示されていた『春の曙』は、北斎喜多川歌麿が1回ずつ挿絵を手掛けた珍しい作品らしい。江戸の名所を題材とした狂歌絵本は、北斎の絵画と聞いてイメージする作品に近い。3つ目は読本の時代。葛飾北斎という号は、文化2年(1805)頃~文化6年(1809)まで、40代後半~50代までのごく短い時間だけ使われたことを知る。この号が後の世まで定着したという事実は、この時期の作品の印象が世に残った証左なのだろうか。常盤津長唄のお浚い会の案内と番組に北斎が挿絵を描いたという事実が興味深かった。コンサートの案内やプログラムに画家が挿絵を描いていたんだね。今ならデザインで済ますところだ。こういう物に図版を載せるということはいつから始まったのだろうか。ここでは『新編水滸画伝』の躍動感あるダイナミックな構図に魅せられた。今の漫画でも十分通じるんじゃないか。あとは『書物袋絵外題集』というブックカバーに描かれた絵を集めたアルバムの存在に、一過性の消えゆく物を集めようという心意気が当時にもあったのかなと想像した。4つ目は絵手本と錦絵の名作。『北斎漫画』や『北斎画譜』など、絵の描き方の教科書の絵を描いていた時代。絵画のお手本が、日本の風俗資料として海外外交官の報告書に採られていったというのは面白いな。『今様櫛きん雛型』という図案集が興味深い。実物大の櫛や煙管の図案集で、ページを切り取って部材に直接貼り付けて彫刻できるようになっているそうだ。量産可能な工業デザインじゃないか。北斎の画業として時系列に並べられた最後は晩年の時代。あらゆるテーマや構図の富士山を集めた『富嶽百景』という絵本が展示されていた。「画狂老人」や「卍」という号を使ったのも晩年のことらしく、長い画業の末、果てなく絵狂いとして最期の時を迎えるまで描き続けた北斎の人柄を思い浮かべてしまった。娘の応為を主役に据えた作品とはいえ、今年読んだ朝井まかての小説『眩』に描かれた葛飾北斎の姿を思い出す。ひたすらに描き続けた人生だった。「北斎をとりまく人々」「北斎ゆかりの地」と解説パネルが続き、最後は『諸国瀧廻り』が展示されていた。滝らしい滝の絵だ。流れ落ちては地を打っていく滝を見に行きたくなってきた。数年前に袋田の滝華厳の滝は見に行ったな。

 

 スタンプで作る浮世絵ポストカードとして、『諸国瀧廻り 木曽路ノ奥阿弥陀ヶ瀧』が展示エリアの最後に置かれていた。ポストカードを所定の枠に固定し、順々に違う色のスタンプを押していくことで浮世絵の制作過程を体験しながらポストカードができる仕組み。同様の物は東京富士美術館でも目にしたことがある。その時の図柄は『神奈川沖浪裏』だった。やってもよかったが、まあいいか実物を見たしなと思ってスルーして退館。東洋文庫らしい、必ずしも絵画展ではない葛飾北斎展としてなかなか面白かった。北斎作品として元から知っていた物は最後の『諸国瀧廻り』ぐらいで、超有名作品である『富嶽三十六景』が一枚も無かった。スポットの当る所からやや離れた北斎作品展として良かったと思う。北斎と直接関係する資料が多かったかと言われると微妙な所だとは感じたが。

 

 駒込まで来たから吉祥寺を見て行くかと思ったが、時間も無いままに駅までまっすぐ向かう。毎年の恒例になりつつある鍋パは幸せな時間だった。集まれるということを、そこで過ごす時間を大事にしていきたいな。