出雲と大和

 前回から一挙に空いてもう2月まで来てしまった。あまり外出意欲が湧かずに読書に勤しんでいたのだが、そこまで読んだ本が多い訳でも無く、時の流れに気づけば1月は過ぎ去っていった。合間に行った展覧会では、代官山ヒルサイドフォーラムでやっていた「夢の実現」展が面白かった。実現してみた色彩も作品も、それはそれで元作品とは分かれてまた別の作品としての価値を持つんじゃないかと思うと、作品を作品足らしめる真正性とは何なのだろうと考えてしまう。前置きはこれぐらいにして、今回は25日(土)に東京国立博物館で鑑賞した展覧会の話。

 

 昼に赴いた国立公文書館の企画展に始まり、米沢嘉博記念図書館明治大学博物館の企画展、秋葉原のイラスト展2ヶ所を徒歩で巡り、疲れの蓄積と共に日は落ちて行った。東京国立博物館は21時まで開館しているので時間に余裕はある。晩御飯を摂って少し休憩して上野公園に向かって歩くこと十分ほど。ようやく今日の本命である東京国立博物館に到着した。時間は18時45分ぐらい。宵闇の中に灯りが光る宮殿のような佇まいに感動しながら、チケットを見せて入館。招待券をいただいたので入館料は無料。トーハクの特別展を見るのは何年ぶりだろうか。時間があれば是非とも常設展も見たいが果たして時間はあるか。平成館で展覧会のチケットをもいでもらい、エスカレーターを上っていよいよ展示場フロアへ。

 

 

 最初の挨拶を読む。令和2年(2020)が『日本書紀』の編纂された 養老4年(720)から1300年だと。そういえばそうだったね。というか展示の枕詞にも書いてあった。『日本書紀』の冒頭部分に超常世界の「幽」に当たる出雲大社と現実世界の「顕」に当たる大和の話が記されており、その対比が今回の特別展のコンセプトらしい。

 

 まずは第1会場。入るなり巨大な3本の木の柱がお出迎え。往古に出雲大社本殿を支えていた柱材の一つ、宇豆柱だ。宝治2年(1248)に遷宮した際の物。出雲旅行の際にも目にしたがやはり大きい。木の生々しさが、確かに建材として時代を経てきたことを感じさせる。これをよくぞ島根からトーハクまで運んできたなあと、運搬・設置の労を想像した。

 最初のエリアは第1章「巨大本殿 出雲大社」として、出雲大社本殿に関する史料と宝物の展示。宇豆柱の左手には、今回の展示コンセプトの部分の出処たる記述が記されている『日本書紀』の部分が展示されていた。目印は付いているので、確かに「幽」と「顕」という文字は見えるのだが、読みたいその周辺の記述の意味がよくわからない。翻刻されていないのもあるが、翻刻されていたとして『日本書紀』を読解できる次元に自分は達していない。一解釈という形でもよいので、字が現れる一帯の翻刻と簡易訳はあると良かった。出雲大社オオクニヌシが「幽」、大和の天皇が「顕」を司るという説明はあったのだが、史料上の記述を知りたかったので。

 第1章の説明を読み、奥へと進んでいく。宇豆柱と同じく出雲大社の本殿を支えていた柱の心御柱がまたもやどーんと現れたが、初見の宇豆柱のインパクトにはかなわない。右手に宝物が、左手には古代の出雲大社本殿の復元模型が展示されていた。出雲大社の復元模型を見、展示空間の宇豆柱と心御柱の間の幅は実際の物を反映しているという記述を見て思わず後ろを振り返った。模型とキャプションの記述からすると、心御柱を中心に9本の柱が出雲大社本殿を支えており、そこから長く長く続く階段が降りていく。展示空間の中に想像の出雲大社を顕現させ、そのあまりの大きさに言葉を失った。なんと巨きな世界なのだろう。長い階段はエストニア国立博物館みたいなのだろうか。

 いよいよ展覧会らしい細々した物の陳列を見て行く。まずは出雲大社境内遺跡の出土品から。銅戈・勾玉に始まり、臼玉・勾玉、須恵器、土師器などが続いていく。勾玉は英語でcomma-shaped bead、臼玉はmortar-shaped beadというのか。綺麗な緑の勾玉と、赤い瑪瑙の勾玉が展示されていた。臼玉と勾玉のセットのキャプションで、大和産の滑石製の玉類と出雲産の瑪瑙の勾玉とあったが、産出地の特定はどうなされているのだろう。考古学に詳しくないが、大和産だとはっきり述べられるのはなぜなんだ?

 さらに奥に進んでいくと、遷宮記録の文書類が壁側に、鎧や本殿模型、太刀が内側のケースに入って展示されていた。これらの文書類が残っているおかげで、今でも出雲大社遷宮の様子などがわかるんだなあ。やっぱり記録は残していくべきものだな。

 

 第2章に入る。「出雲 古代祭祀の源流」。加茂岩倉遺跡でまとまって発見された銅鐸の山が埋まっていた様子を再現したコーナーが導入として入る。写真撮影が可能だったので、折角なので撮影。密集して埋まっていたのが窺える。

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埋まる銅鐸山

 まずは出雲地域が方々と交流があったことを示す資料群から。南海地域産であろう貝輪と土笛、人面付きの土器、分銅型の土製品。日本海に面する立地から、古くから日本海を介した交流が行われていたと。それはそうだろうなあ。

 進んで広い部屋に出た。左手に数多の銅鐸が、右手には銅剣が何本も飾られている異様な空間が広がっていた。予想より遥かに数が来ていてびっくりした。島根県立古代出雲歴史博物館に訪れたことがある以上、銅剣や銅鐸の物量で圧倒されることは無いだろうと思っていたのだが、東京でこれだけ目にすることができようとは。出雲の博物館ではさながら武器庫のように銅剣が壁一面に展示され、銅鐸も膨大な量見ることができる。

 改めて銅鐸を見て行くと、大量生産品のシンプルな模様の物と、一点ものの贅沢に模様が施された銅鐸があることに気づく。伝香川県出土の銅鐸は、6つの区画全てに絵が描かれた豪華な銅鐸だった。また、隠岐諸島の海土町で出土した銅剣が展示されており、島嶼部でも青銅器祭祀が行われていたことを知る。そこまで伝わったのか、現地製造なのかはわからないが。

 しかし、これだけの物量の青銅器が発見されている出雲地域は、各地に先駆けて青銅器祭祀を辞めたらしい。そして、墳丘墓を作る時代へと変わっていく。青銅器を介したカミマツリが墳丘墓を舞台とした王が執り行うカミマツリになったとキャプションにはあった。個人的に今回の展示のキャプションで初めて驚いたところだった。だったらなぜこれだけ青銅器が発掘されるのだろうか。出雲という立地か、それだけ青銅器祭祀が盛んだったからか?ともあれ、人、そして古墳の時代へと移っていったタイミングで、展示も幽たる出雲から顕たる大和へと移っていく。

 

 第3章「大和 王権誕生の地」。ここでは主に奈良県の古墳で出土された品々が展示されていた。展示空間の中央には何枚もの三角縁神獣鏡が並ぶゾーンが。壁際の展示から見て行くことにする。まずはメスリ山古墳の出土品から。玉杖と鉄弓・鉄矢が展示されていた。古墳時代の副葬品としてあまり聞いたことが無いと思っていたら、後者は他に類例のない物だとか。青銅器である銅剣が祭祀具として数多出土されているのは流石に知っていたが、鉄器で武器を象った物もあるんだね。鉄弓は弦を引くことができないので、まあ儀礼的な物だろうと。大きな円筒埴輪も展示されていた。ドラム缶が3つ並んでいるかのようだ。

 次は島の山古墳出土品が並ぶ。腕輪型の石製品の石釧・鍬型石と車輪石。貝殻型腕輪を祖型とする物が、古墳時代に石製品として写された物であると。貝殻のままでもよかったものが、石に写されて石製品として残ったことには何か意味があるのだろうか。貝殻は外界交流を伴う必要があるが、交流なく内部で生産できるようにした物なのか。逆に言うと、貝殻型の腕輪類がかつてこの地域まで伝わっていたということにもなるか。車輪石も貝類祖型の石製品で、埋葬された内部に貼り付けられ、邪を払う役割があったと推定されているらしい。見た目がフジツボみたいで、発掘された様子がびっしりいるフジツボにしか見えなかった。

 中央の鏡エリアを見て、居並ぶ埴輪達を眺めて第1会場は終了。出雲旅行で大体見たし、改めて特に感動もないかなと出雲エリアについてはそこまで期待していなかったのだが、見たことがあろうとも柱と模型からは太古の世界の大きさを感じさせられる。

 

 第2会場へ。引き続き第3章。入ってすぐの所に古墳期の造船部材と、それを基にした模造船が展示されていた。こんな船であちこちと交流を持っていたのだなあ。ここからは、古墳時代の交流を窺わせる舶来品が続いていく。驚いたのは、ササン朝ペルシア系のガラス碗が展示されていたこと。古墳時代の国際交流のイメージがあまり強くなかった(倭の五王ぐらいか)が、まさかペルシア系の物まで日本に伝わっていたとは。中国・朝鮮・日本の狭い東アジアの古墳時代観が、一気に拡がった瞬間だった。まあ中国の交流度合いを考えると不思議ではないのだが、ペルシア品といえば正倉院まで時代が下るので、それだけ新鮮だった。ここで展示されていて面白かったのは火熨斗。皿の中に炭を入れ、熱や重さでしわを伸ばす……要はアイロン。古墳時代版のアイロンということで、なんだか一気に世界が身近に感じられた。遥か昔からあるもんだね。

 奥に進むと、石上神宮の七支刀が展示されていた。こんな物まで来ているとは!トーハクすごいな。有名な品を見て驚いたのはこの展覧会で唯一だった。一歩先のエリアには同じく石上神宮所蔵の大きな鉄盾が展示されており、中国戦国時代イメージの盾が日本にも伝わっていたのだなあと。伝わったのが自前なのかはわからないが。

 その先には壮麗な馬具が展示されていた。精緻な彫金細工は、今目にしても色あせない高い技術を感じる。出雲の博物館で見たような気がする太刀を見て、子持ち壺にアート的な奇抜さを感じて先へ進んでいき、いよいよ時代は仏教の時代へ。

 

 第4章「仏と政」。政治や権力の象徴が古墳から寺院へと切り替わり、展示物の多くは仏像だった。最初に展示されていた飛鳥寺塔心礎埋葬品は、玉類が含まれるなど古墳の副葬品と共通する物が見える。島根県鰐淵寺の観音菩薩立像が展示されており、飛鳥時代の7~8世紀にはもう現島根県地域に仏教が浸透していたのだなと。純粋な疑問だが、薩摩に仏教が浸透したのはいつなんだろう。北の方は?

 ここの展示エリアで一番印象に残ったのは、當麻寺持国天立像。一見して、なぜ武将の像が仏像エリアにあるのか疑問を抱いた。髭を蓄えた写実的な面貌や、ポーズを取らない直立した姿は、中国の武将を思わせる像にしか見えない。なるほど、足元には確かに邪鬼が踏みつけられており、ああ四天王像なのだと。すごく丸まった上に乗られていた。

 伎楽面を目にしたり、唐招提寺の四天王像や島根県萬福寺の四天王像を見て、その雄々しさと展示空間に感動したりしながら、最後のエリアはあっさりと過ぎていった。どうも仏像に対する興味があまり強くない。一番最後には法隆寺金堂壁画の複製陶板があり、これまた撮影OKだったので撮影する。そういえば法隆寺は行ったことが無いな。

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法隆寺金堂壁画複製陶板

 

 閉館まで1時間も無いが、折角来たので見そびれていた「博物館に初もうで」を急いで見る。ネズミと大根の取り合わせで大黒天を想起させる判じが面白かった。常設展は見たかった刀剣エリアが残念ながら見られないので、近代美術のエリアを眺めて退館。充実した一日だった。

 

 

 さっさと感想を書くつもりが、気づけば行ってから2週間近くが経とうとしている。展示を見ながらメモしたことに基づき、記憶のままに書いたわけではないから大きく違うことはあまり無いとは思うが、直近の感動やら思考やらはもはや消えようとしている。結局、「幽」と「顕」について具体的なイメージを抱けたかというとそこまでではなかったが、古墳時代が地方の狭い閉じた世界ではなく、開けた大きな世界だったのだと認識を新たにできたことは意味があった。常設展を見るのに必死だったからミュージアムショップを覗けずに終わったが、行けばよかったな。