東山魁夷の青・奥田元宋の赤―色で読み解く日本画―

 感想を書くことを面倒臭がっていたら行ってから1週間経ってしまった。1個1個記録を遺して積み上げていきたい意識があるために、1つが滞ると次の場所へも行けなくなる。ともあれ、今月15日日曜日に訪れた山種美術館の展覧会の記録。

 

 

 インターネットミュージアムのチケットプレゼントを申し込んだら招待券が当たった。今までもartscapeなどで申し込んだことがあるが当選したのは初めてだ。ダメ元でも申し込み続けてみるもんだね。2枚のうちの1枚は鍋パを主催してくれた友人に贈ることにし、さていつ行こうかと機会を窺っていたら22日の会期終了が間もない時期となって焦る。寒さのままに布団で二度寝を繰り返すも、今日行かねば来週はもっと混むに違いないと身を奮い立たせて外に出た。

 15時過ぎに渋谷に着く。もっと早めに家を出て方々をついでに回りたかったが仕方ない。怠惰が悪い。何度も訪れた経験から、足が動くままに美術館を目指す。はっきりした道を覚えている訳ではないが、大雑把な方向は覚えているので無事到着。数ヶ月ぶりの来館だが、渋谷駅から予想以上に時間が掛かった。いつもは國學院大學博物館からの梯子来訪ばかりで、直に向かうことがあまり無いから感覚が違うんだな。招待券を見せ、階段を下りていく。

 

 今回の特別展は「東山魁夷の青・奥田元宋の赤―色で読み解く日本画―」と題し、画面に特徴的な色に焦点を当てて日本画を見て行く展示。最初は青から。展示室に入って正面に在ったのは東山魁夷『秋彩』。木々が生い茂る山を背景に、左手に黄色いモミジが、右手に赤いモミジが前景として描かれている。この青がもっと明るければ信号機の三色だ。東山魁夷の絵画として真っ先に思い浮かべるのは、東京国立近代美術館で目にした『道』なのだが、確かにこういう鬱蒼と広がる森の風景も作品イメージに強い。そして『年暮る』。深々と雪が降りゆく京都の街並みを、蒼く描いた作品。数年前にも山種美術館で見たことがある。蒼い世界は現実的な色ではないのだが、暮れゆく頃に雪降る景色は、この絵が心象として湧いてくる。蒼い暮れ時を照らす雪の白さ。川端康成に「京都は今描いといていただかないとなくなります。京都のあるうちに描いておいてください」と乞われて描いた作品の一つだそうだ。京都を訪れたことは数えるほどしかないが、時代が進んでいく中でこの絵画も失われた記憶の一風景の記録となっているのかもしれない。展覧会テーマに即すなら、この絵こそが自分の中の「東山魁夷の青」というイメージだと心に刻まれた。

 青の場所で印象に残ったのは、平山郁夫『阿育王石柱』の脇に添えられていた平山の言葉。長い画業の中で最も苦心したのは自分の色を創り出すことであり、画家の持ち色はその人の人生体験を映しだし、それが個性となると。画家の作品に色というイメージで語っていくこの展覧会のテーマがこの言葉に全て現れている。平山にとっては群青がそれであり、現実に無い色として現実の空間を幻想宇宙に置き換えていくことができ、瀬戸内海の小島育ちという自身の原風景にも一致すると。『阿育王石柱』は群青の背景に金の石柱がドンと描かれた作品だが、その青は青の強さゆえに自然みが無い。経文や仏画における紺紙金泥の意識が見られるとのことで、仏教という観念世界にある色として神秘的な雰囲気を醸し出している。空の青。海の青。そういう物じゃない、心の中にある深い群青。蒼い世界は何かしら深く思索を誘う物を感じさせるものなのかもしれない。

 絵としてインパクトを感じたのは宮廻正明『水花火(螺)』。高知県四万十川の投網を描いた絵画で、船の上の人物が広げる白い網が花火のように画面に広がっている。いつぞや藝大美術館で見た覚えがあるが、精緻な網の描写、幾層にも連なった水の描写が素晴らしい。

 

 青の次は緑。緑といえば植物、そしてそれが連なった森や山の色が想起される。山口蓬春の『卓上』がミュシャの絵画の様で面白かった。緑の衣装の人物が描かれた緑で縁取られた洋皿をメインに、洋ナシとテーブルが描かれた絵画。濃い緑色が目に残る。この緑のエリアで一番印象に残ったのは近藤弘明『清夜』。空も空気も暗い緑の世界に咲く花と山、空に輝く月。月にはうっすらと蛾の姿が映り、画面右下の蛾と共に目を引く。RPGの地下世界を思い出すような幻想的な絵画世界だった。花が大きく咲き連ねている風景もまた異世界を思わせる。すぐ隣に展示されていた佐藤太清の『清韻』が、一面の植物に数羽の蝶が描かれた爽やかさを感じる絵画だったのに比して現実離れした光景だ。

 

 大きな作品が展示されることが恒例のスペースに、今回は奥田元栄の『奥入瀬(秋)』が展示されていた。画面の中央を左右に川が貫き、沿岸に咲く紅葉の赤が画面一面に広がっている作品。画面の7~8割ほどが赤に覆われていて否応なく目に刺さってくる。今年は紅葉を目にする場所にあまり行かなかったな。京都で紅葉狩りをしたのは何年前だったろうか。流石にもう紅葉を見られる季節ではないが、来年には見に行けるといい。

 この絵画を見て振り返ると白い画面が広がっていた。直感的に水が落ち行く風景なのだと察することができたのは、同作者の作品を何度か見たことがあるからか。キャプションで作者を確認してやはりと思う。千住博だ。落ち行く滝には正直感じなかったが、今までの鑑賞経験からすると同じテーマなのだろうし、説明を見るとどうやら間違っていないらしい。水が落ちていく、その水しぶきの白さ。水という画面のほかに、甘い砂糖菓子のヴェールのような物が思い浮かんだ。

 

 『奥入瀬(秋)』の側から順路に従って絵画を見ていく。赤。日本で赤の風景と言うとやはり紅葉になるか。秋の風景だ。日本の四季は色風景としても豊かなのだとこの辺りで思い始める。赤々とした画面を見ていると、風景以上に画家の情念が感じられてくる。奥田元栄の言葉を見ると、赤を扱う画家としてそういう自覚はあるらしい。柴田是真の『円窓鐘馗』も赤地が目に焼き付く作品だったが、鐘馗図で赤を前面に出すのも意思が強くあるのかもしれない。

 

 黄、黒、白、銀と順々に見て回っていく。黄は竹内栖鳳の『鴨雛』のいかにもな鳥の感じを覚えているぐらい。黒では都路華香の『帆舟』が構図として面白かった。墨で描かれた黒い帆船が連なる様を描いた作品で、帆と帆の間から月が覗いている。横に連なって船体全体が見えるように描かれているのではなく、縦に帆が連なっているのが印象的。画面の大部分は黒々としているが、帆船連なっていたであろう前近代の光景が頭に浮かんできた。

 日本で白といえば雪を想うが、白のエリアで惹かれたのは上村松篁の『白孔雀』。真白い孔雀が画面いっぱいに描かれた絵画。細い尾羽が1本1本描かれ、その尾の長さと合わせて魚の骨を思わせた。綺麗な孔雀だ。銀は印象にそこまで残らなかったが、銀を表すのにアルミを貼るという技法に興味を引かれる。横山操の『マンハッタン』の暗い銀色が光る画面が銀という色の使われ方なのかと感じていた。

 

 ミュージアムショップの前を通り過ぎ、反対側の小さな展示室へ。こちらは金。森田曠平『出雲阿国』と小林古径『秌菜』が印象的。特に後者。柿を描いた絵画だが、葉の部分に金を用いている。柿を主題とするにあたって、柿を大きく描くのではなく、木として枝として葉をしっかりと連ならせ、その結果として柿の存在が目にくるようになっている。この感想を書くために秌という字を調べたが、なるほど秋という字なのか。

 

 

 今回の展覧会は秋を感じさせる作品が多かった。春めいた作品は少なかったかな。郷さくら美術館の桜の絵を見ていると春という時季にも絵画世界は広がっているのだろう。日本の四季はそれぞれ色イメージが付き、そういうところが日本画という世界にマッチしているのだなと感じ得た展覧会だった。

東洋文庫の北斎展

 一週間どこにも行かないだけで、随分と長い間博物館に行かなかった気がする。友人宅で催される鍋パの夜に合わせて近場の展覧会を見に行くかということで、14日土曜日に東洋文庫ミュージアムに訪れた。一時期は展覧会の度ごとに行っていたほどだが、最近はご無沙汰だった。曲がる所を間違えることも無く、駒込駅からすんなりと到着。ああ、複数言語が綴られた入口も懐かしい。ぐるっとパスの該当ページのチケットを切ってもらい、シールを胸に貼って入館。そういえばこんなシステムだったね。

 

 まずはオリエントホール。「葛飾北斎が生きた時代」というテーマで、18世紀後半から19世紀半ばという北斎の生涯(1760-1849)の時期に、日本と世界はどうだったかを資料の展示と共に解説していた。日本は言わずもがな江戸時代。西欧はフランス革命からナポレオン戦争。中国・インドは帝国の最盛期からの下降期。高校時代に学んだ世界史は中世以前で止まっているから、この程度の時代感覚すら怪しい。いつか勉強せねばと思い続けて結構な歳月が過ぎている。来年の目標にするか?

 北斎と同年の1760年生まれの人物として、志筑忠雄、嘉慶帝華岡青洲、アクバル2世が挙げられていた。この時代の日本で、まして庶民の葛飾北斎に同年生まれという概念を適応することに意味はそこまで無いとは思うが、まあ時代イメージということで。Wikipediaを見た所、『甲子夜話』で知られる肥前藩主の松浦静山も同年生まれらしい。彼らにまつわる資料が展示されていたが、最初の志筑忠雄の『異人恐怖伝』のインパクトがすごい。エンゲルベルト・ケンペルの『日本誌』を志筑が訳した物で、日本の外交政策を訳した部分が「鎖国論」としていわゆる「鎖国」という言葉になった訳だが、展示されていた該当ページが興味深かった。展示説明によるとケンペルは日本の外交政策を肯定的に記していたとあるが、志筑によって訳された展示資料から読み取れる内容は明らかに違う。天の理としての友好や通交に背く国として日本の外交政策が記され、恐ろしい国として記されている。展示説明にあるように、西洋から畏怖された日本像を日本人に示した物だとすると、現代の思想が強い啓蒙書のような物になる。

 同年生まれ人物資料の次は、同年代の世界資料。展示されていた年表にせよ、要は江戸時代に世界がどうだったかというだけの話で、北斎とはそこまで関係は無い資料が並ぶ。東洋文庫らしい展示ではある。ゴンクール兄弟による『マリー・アントワネットの物語』や『ハワイ語辞書』などバリエーションは様々で、最後に『共産党宣言』の最終ページが開かれて展示されていたのは思わず笑ってしまった。萬國のプロレタリヤ團結せよ!

 

 東洋文庫ミュージアムおなじみの広開土王碑拓本を一瞥し、「東洋文庫×修復のお仕事展」のパネルを見ていく。これは企画展と特に関係はない単発の展示。和漢書・洋書・東洋書画・写真の修復方法の説明と修復道具が展示されていた。東洋文庫が開館した頃から修復は気を配ってきた分野だそうだ。研究資料として、在りし歴史の証拠として、永く保存・使用されねばならない物なので、携わっている方をただただ尊敬する。資料を扱う際には気を遣っていかなければ。

 

 階段を上がり、東洋文庫ミュージアムを象徴するモリソン書庫の本棚に迎えられる。この光景は何度見ても圧倒されるし、このような本の山の中で生きていきたいという憧れに包まれる。今回は「世界から日本へ、日本から世界は―日本を訪れた外国人、海外を旅した日本人の記録」ということで、『天正遣欧使節記』や『ペリー提督日本遠征記』、『日本奥地紀行』が展示されていた。

 

 さらっと通り過ぎて名品室へ。東洋文庫の名品が展示されている一角で、今回は国宝の『文選集注』がトップを飾る。『源平盛衰記』、『テュルク諸語集成』、『日本幽囚記』、『ペリー久里浜上陸図』などを目にした。毎度毎度の『解体新書』ゾーンをスルーしていよいよ本筋の葛飾北斎の展示に改めて入っていく。

 

 最初の解説パネルによると、世界的な北斎知名度の淵源は江戸時代終りに日本を訪れた外国人の紹介らしい。1830年代にオランダ商館員のフィッスヘルや商館医のシーボルトが自著の挿絵に北斎の絵を借用したことに始まり、幕末の訪日外交官や使節団の報告書において、日本の風俗や歴史を伝えるために北斎の絵が借用されたことが大本の始まりとのこと。外交官側が画家を連れて描かせていくよりも、現地である日本人が描いた絵画が都合がよかったのだろうなあ。そして、北斎の絵画は1867年のパリ万博で多くの人の目にする所となったらしい。ということは、当時の世界における江戸時代のイメージの一端は葛飾北斎の絵画世界になるのだな。写真が普及する以前だし、それは我々現代が江戸時代像を探るイメージの一角を担っていることにもなる。

 最初に展示されていたのは、飯島虚心による北斎の伝記『葛飾北斎伝』。北斎を知る人の聞き取りや関連資料をまとめた書物で、今なお北斎研究の基礎文献となっているらしい。その後は、『北斎漫画』や『北斎画譜』から採られた図版が掲載されている資料が続いていく。日本美術を西洋で初めて総合的に紹介した『日本美術』のキャプションにあった、著者のルイ・ゴンスが庶民絵師・葛飾北斎を日本最高の画家と絶賛したのに対し、古典や伝統を重んじたフェノロサが彼を激しく批判したという記述が面白かった。フェノロサの日本美術の立場はそうだったんだね。ここのエリアで一番驚いたのは、1896年に刊行されたエドモン・ゴンクールによるフランス語の北斎の伝記『北斎』。葛飾北斎の死から50年も経っていないし、上記の『葛飾北斎伝』の刊行からわずか3年しか経っていない。巻末には主要作品目録が掲載されているのを含め、当時のフランスにおいて北斎という存在がいかに大きかったかが窺える。世界的なアーティストじゃないか。

 

 クレバスエフェクトが印象的な回顧の道を通ってもう一つの企画展示室へ。あまりに小規模なため、クレバスエフェクトはそこまで恐怖を感じないんだよな。もう一つの企画展示室は、葛飾北斎の生涯のそれぞれにおける画業を見て行く展示で、いわゆる北斎展と言った場合に思い浮かべる展示だった。勝川春章の弟子となり、春朗という名で手掛けた画家デビュー間もない頃の時期の作品から展示が始まった。師の春章は人気役者のブロマイド絵を手掛けた画家で、展示されていた『錦百人一首あづま織』は同種の定型的な書き方をなぞらずに立ち姿や動きのあるポーズを取り入れ、表情も含めて各々の個性を出した作品らしい。ここで展示されていた北斎の作品も人物絵だった。次のエリアは狂歌絵本に載せた挿絵を手掛けていた時代の展示。最初に展示されていた『春の曙』は、北斎喜多川歌麿が1回ずつ挿絵を手掛けた珍しい作品らしい。江戸の名所を題材とした狂歌絵本は、北斎の絵画と聞いてイメージする作品に近い。3つ目は読本の時代。葛飾北斎という号は、文化2年(1805)頃~文化6年(1809)まで、40代後半~50代までのごく短い時間だけ使われたことを知る。この号が後の世まで定着したという事実は、この時期の作品の印象が世に残った証左なのだろうか。常盤津長唄のお浚い会の案内と番組に北斎が挿絵を描いたという事実が興味深かった。コンサートの案内やプログラムに画家が挿絵を描いていたんだね。今ならデザインで済ますところだ。こういう物に図版を載せるということはいつから始まったのだろうか。ここでは『新編水滸画伝』の躍動感あるダイナミックな構図に魅せられた。今の漫画でも十分通じるんじゃないか。あとは『書物袋絵外題集』というブックカバーに描かれた絵を集めたアルバムの存在に、一過性の消えゆく物を集めようという心意気が当時にもあったのかなと想像した。4つ目は絵手本と錦絵の名作。『北斎漫画』や『北斎画譜』など、絵の描き方の教科書の絵を描いていた時代。絵画のお手本が、日本の風俗資料として海外外交官の報告書に採られていったというのは面白いな。『今様櫛きん雛型』という図案集が興味深い。実物大の櫛や煙管の図案集で、ページを切り取って部材に直接貼り付けて彫刻できるようになっているそうだ。量産可能な工業デザインじゃないか。北斎の画業として時系列に並べられた最後は晩年の時代。あらゆるテーマや構図の富士山を集めた『富嶽百景』という絵本が展示されていた。「画狂老人」や「卍」という号を使ったのも晩年のことらしく、長い画業の末、果てなく絵狂いとして最期の時を迎えるまで描き続けた北斎の人柄を思い浮かべてしまった。娘の応為を主役に据えた作品とはいえ、今年読んだ朝井まかての小説『眩』に描かれた葛飾北斎の姿を思い出す。ひたすらに描き続けた人生だった。「北斎をとりまく人々」「北斎ゆかりの地」と解説パネルが続き、最後は『諸国瀧廻り』が展示されていた。滝らしい滝の絵だ。流れ落ちては地を打っていく滝を見に行きたくなってきた。数年前に袋田の滝華厳の滝は見に行ったな。

 

 スタンプで作る浮世絵ポストカードとして、『諸国瀧廻り 木曽路ノ奥阿弥陀ヶ瀧』が展示エリアの最後に置かれていた。ポストカードを所定の枠に固定し、順々に違う色のスタンプを押していくことで浮世絵の制作過程を体験しながらポストカードができる仕組み。同様の物は東京富士美術館でも目にしたことがある。その時の図柄は『神奈川沖浪裏』だった。やってもよかったが、まあいいか実物を見たしなと思ってスルーして退館。東洋文庫らしい、必ずしも絵画展ではない葛飾北斎展としてなかなか面白かった。北斎作品として元から知っていた物は最後の『諸国瀧廻り』ぐらいで、超有名作品である『富嶽三十六景』が一枚も無かった。スポットの当る所からやや離れた北斎作品展として良かったと思う。北斎と直接関係する資料が多かったかと言われると微妙な所だとは感じたが。

 

 駒込まで来たから吉祥寺を見て行くかと思ったが、時間も無いままに駅までまっすぐ向かう。毎年の恒例になりつつある鍋パは幸せな時間だった。集まれるということを、そこで過ごす時間を大事にしていきたいな。

11月のまとめ

11月に行った展覧会のまとめ

 

小平市平櫛田中彫刻美術館 心のふるさと井原
小平市ふれあい下水道館
武蔵野美術大学美術館 スタシス・エイドリゲヴィチウス:イメージ——記憶の表象
武蔵野美術大学美術館 帝国美術学校の誕生―金原省吾とその同志たち
武蔵野美術大学美術館 島本脩二「本を作る」展 デザイナーと編集者の役割
吉祥寺美術館 きくちちき絵本展しろとくろ
駒場博物館 日本の学生野球の原点一高野球部からたどる東大野球部の歴史展
渋谷区立松濤美術館 日本・東洋 美のたからばこ~和泉市久保惣記念美術館の名品
pixiv WAEN GALLERY しらたま初個展「たまこてん」
国立科学博物館 風景の科学展芸術と科学の融合
伝統芸能情報館 歌川豊国―歌川派の役者絵―
練馬区立美術館 エドワード・ゴーリーの優雅な秘密
郷さくら美術館 「空—模様」日本画
新宿歴史博物館 近代測量150年記念「測量×地図 測り・描き・守り・伝える」
平和祈念展示資料館 四國五郎展
文化学園服飾博物館 能装束と歌舞伎衣裳
マジェルカギャラリー アートブックで旅するソビエトの絵本とモダンアート展
とらのあな秋葉原店B ぽんかん⑧『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』展
アーツ千代田3331 内藤絹子個展「越境 - Cross Border - 」
アップリンク吉祥寺 高砂淳二写真展~映画『ドルフィン・マン~ジャック・マイヨール、蒼く深い海へ』公開記念
白根記念渋谷区郷土博物館・文学館 渋谷に残された伝説
國學院大學博物館 大嘗祭
DIESEL ART GALLERY GODDESS
パナソニック留美術館 ラウル・デュフィ展― 絵画とテキスタイル・デザイン ―
ポーラミュージアムアネックス It's always the others who die 舘鼻則孝
インターメディアテク 十九世紀ミラビリア博物誌――ミスター・ラウドンの蒐集室より

 

展覧会というタイプではないが、ドット絵の祭典Pixel Art Parkにも行った。量で語るのも無粋だが、量を積むこと自体には意味があるので書くが、もう少し色々回りたかったところ。

 

 

11月に読んだ本まとめ

 

赤松中学チアーズ!』2~5巻
あさのあつこ『アスリーツ』
城山三郎『落日燃ゆ』
砥上裕將『線は、僕を描く』
原田マハ『20 CONTACTS 消えない星々との短い接触
姫ノ木あく『ハイスクール・フリート いんたーばるっ』1~2巻
牧野圭祐『月とライカと吸血姫』1巻
都月景『サモンナイト―受け継がれし炎―』
リービ英雄星条旗の聞こえない部屋』
令丈ヒロ子『長浜高校水族館部!』

エドワード・ゴーリー『狂瀾怒濤 あるいは、ブラックドール騒動』

 

ラノベが半分ぐらい。小説に限らずもっと色々読んでいきたいが、サクッと読めるのは小説なんだよな。昨日はミシェル・ウエルベックの『セロトニン』を借りてきた。いずれにせよ、読書量も増やしていきたいところ。

ラウル・デュフィ展― 絵画とテキスタイル・デザイン ―

 11月も終わる30日土曜日、パナソニック留美術館に行った。最近は雨が多かっただけに、晴天の日に外を歩けることがいつも以上によろこばしい。寒さが強まって寝床から出るのに時間が掛かったため家を出立したのが遅く、新橋駅に到着したのは15時半頃だった。JRの新橋駅ばかりを利用していたから、メトロの新橋駅から行くのは初めてだ。こちらから行く方が道がわかりやすい。寒さに震えた昨日よりはマシな気温だった。

 

 パナソニック東京汐留ビルに入ってエスカレーターに乗る。毎度のことながら、未だに手動の回転ドアが入口になっていることに驚いてしまう。普段そういう場所に近寄らないからなあ。1階のTOKYOリノベーションミュージアムを横目に通り過ぎ、4階へと上がっていく。そこまで興味がある訳ではないが、無料の展示施設ということもあって一度ぐらいは入ってみたい。今回はそんな気分でもなかったのでスルー。4階に辿りついて驚愕した。受付の外に列ができており、入場制限を行っているとのこと。十数回ぐらい訪れたことはあるが、こんなことは初めてだ。そんなに人気がありそうな展覧会とも思えなかったのだが。急いで列に並んだが、10分も待たないうちに受付を済ませて入場することができてよかった。ぐるっとパスを使ったので入場料は無料。

 

 

 最初の第1章のエリアは絵画が展示されていた。一番最初に目に入った『グラン・ブルヴァールのカーニヴァル』は印象派風の作品だったが、それ以降の作品は印象派からフォーヴィスムに近い方向に移っていく。フォーヴといっても荒々しいタッチではなく、爽やかな明るさがある感じというか。海や音楽関連の事物を描いた作品が展示されていた。『ピエール・ガイスマール氏の肖像』は面白い絵だった。男性の後ろに外の風景が窓から覗いていると思ったら、よく見ると窓枠も無く、外景と連続して部屋の中の風景が続いていく。これは外の風景ではなく風景画が飾ってあったのだ。額に収まった絵画らしい絵画ではないが、部屋の風景と隣り合って絵画がいくつも画面に配置されている。曖昧な感じに部屋全体の雰囲気が伝わってくる。『ニースの窓辺』の明るい全体の画面と穏やかな海、『オーケストラ』に描かれた演奏の空気。その場の空気を感じているような気分になる。シンプルな線ながら、目に軌跡が残る曲線だった。『シャンデリアのあるアトリエ』のキャプションに記されていた言葉が印象に残った。「自らの病気や世界の動乱が作品に反映されてはならない」。

 

 次の第2章から最後まで、デザインの展示がメインだった。第2章はアポリネールの依頼で手掛けた『動物詩集またはオルフェウスの行列』の挿絵の展開。木版画が展示されており、その後にテキスタイルが続く。テキスタイルを見ていると、先週行ったPixel Art Parkを思い出す。ドット絵っぽい。植物と共に配置されているのもあるが、亀のデザインが甲羅の模様から花にしか見えなかった。後は地が黒いジャングルのテキスタイルで、象の牙が金地でデザインされていて、闇に牙が輝いている風景として面白かった。それにしても、様々な姿の象をデザインに取り入れているのだな。布地用の版木が展示されていて、なるほどこういう物も存在するのかと初見の物に驚いていた。それにしても細かい。

 

 第3章。「花々と昆虫」ということで、章立てで、文字通り花と昆虫を用いたデザインの展示。デュフィが図案デザインを手掛けていた20世紀初期は、女性の衣服デザインがシンプルとなり、その分テキスタイルの絵柄で魅力を競った時代だそうだ。バラを用いたデザインといい、現在でも違和感なく受け入れられる物だった。印象に残ったのは蚕を用いた図案。幼虫・繭・蛾がしっかりとデザインされており、気持ち悪くない……いや、やっぱり色によっては気持ち悪いわ。八王子の道の駅で購入した「かいこの一生」というチョコレートを思い出していた。幼虫・繭・蛾を象ったチョコレートで、味も美味しかった。

 

 第4章。「モダニティ」。自然に限らず現代的なモチーフが布地に現れてくる。テニスとか。最初に展示されていた『ヴァイオリン』が、デュフィの世界をデザインに落とし込んだ良い作品だと思う。花の図案に、ヴァイオリンを分解したパーツや五線譜がうまく組み合わされている。その隣に展示された絵画『黄色いコンソール』はデュフィらしい絵画。コンソールと共に、その上に置かれたヴァイオリンを描いた絵画。黄色が画面の多くを覆う中に、ヴァイオリンとコンソールを象る線が目立つ。色で絵画の中の空気が作られていく感覚。シンプルな線で描かれた事物、そしてそれにまつわる空気を画面全体で放っているような感じ。物への印象、物から感じる印象とはこういう物じゃないだろうか。その後は幾何学的なデザインの布地の展示で終わる。全体として、今でも使えるデザインな印象を受けた。デザインは全然わからないけれども。

 

 最後はルオーギャラリーで作品を見て終わり。ルオーの作品は、盛り上がった絵の具が持ち味な気がするので、版画作品にするとあっさりしているなと感じてしまう。ラウル・デュフィの作品はいつぞやBunkamuraミュージアムで見た『電気の精』ぐらいしか無かったので、この度明るい作品世界とモダンデザインの側面を知られて良かったな。入口で入場制限はあったものの、中はそこまで混雑していなかったのも良かった。

能装束と歌舞伎衣裳

 20日水曜日に文化学園服飾博物館に行った。ぐるっとパス無料の展覧会で内容としても興味があったものの、土曜日は時間が無くて回り切れず、気づけば会期が終わりに近づいていたので慌てて行くことにした。16時が入館期限で16時半に閉館するので、新宿歴史博物館を見た後だと間に合わなかったんだよな……。

 

 

 18日~22日の間、文化学園ウクライナ民族衣装展示会があることをTwitterで知ったので、ちょうど都合がよいので先に見に行く。ウクライナ国内の各地域の民族衣装が展示されていた。世界の民族衣装にもウクライナという国もよく知らないため、確かにそれっぽい衣装だなあという感想のみで終わる。自分の中にある東欧イメージの民族衣装ではあったが、ヨーロッパの別の国と言われたらそんな気もする。日本の民族衣装は何だろうとふと考えたが、着物ということになるか。中韓の民族衣装のイメージと日本の着物のイメージを一致させて考えはしないが、欧米から見たアジアの民族衣装の印象はどれも同じものなのかもしれないと、ウクライナの民族衣装を見ながら考えていた。衣服への興味が薄い故、こんな感想になってしまった。さらっと展示されていた衣装を眺めて出た。

 

 ということで、本題の「能装束と歌舞伎衣裳」。文字通り、能装束と歌舞伎衣裳が何点も展示されていた。能の鑑賞経験は2回ほど、歌舞伎は10~20回ほどなので、歌舞伎衣裳に興味があった。ぐるっとパスで入館。展示室は1階と2階に分かれており、1階が能装束、2階が歌舞伎衣裳の展示がされていた。まずは2階からとのことで階段を上る。

 

 展示室に入って左側の『青砥稿花紅彩画』の白浪五人男の衣装から、奥の方へ進んで時計回りにぐるっと見て行く。白浪五人男は観たことがない。5人それぞれの衣装は、名前や謂れにちなんで図柄が決まっていることを知る。弁天小僧菊之助の衣装に琵琶と菊が描かれていたりとか。琵琶は弁財天の持つ楽器。それにしても、はっきり明快でごちゃごちゃしていない柄だ。歌舞伎らしい。

 そのまま進んで四天、小忌衣、ぶっ返り、彫り物丸肉と、歌舞伎独特の衣装を中心に見て行く。四天は「よてん」と読み、衽が無く裾の両脇が割れた衣装をいうらしい。「馬簾」という飾り房が付いた物もあり、華やかな動きを演出するとのこと。房付きの物は観たことあるかなあ?あまりピンと来ないが、多分ある気がする。小忌衣(おみごろも)は、位の高い武将が御殿などにいる時に着る衣装で、法衣と長羽織を合体させたような物。これは何度も眼にしている。ぶっ返りは妖怪が正体を現す場面や、役の性格がガラッと変わる場面で用いられる衣装の形態で、仕掛けで裏返ることで内側の模様が現れる物。『鳴神』で、雲の絶間姫に騙されてキレる上人の衣装が展示されていた。仕組みはシンプルだし、展開からしてそうなることがわかっていても、おおっと感動できるのが歌舞伎の強い所だと思う。彫り物丸肉は刺青を描いた肉襦袢。

 まな板帯や着物の下絵の展示を見て、『東海道四谷怪談』の衣装を見る。お岩と佐藤与茂七。四谷怪談はいつぞや観たな。戸板返しにぎょっとした記憶がある。途中で歌舞伎と庶民の風俗について、浮世絵と共に小さな解説コーナーがあった。人気女形上村吉弥の帯の結び方・吉弥結びが流行するなど、役者の着物デザインが江戸時代に流行したらしい。役者絵が盛んに作られたり、亡くなった際に死絵が描かれたりと、歌舞伎役者の人気がすさまじかったのは知っていたが、ファッション面でも影響を与えていたんだなあ。納得はする。

 松羽目物について、歌舞伎と能の衣装の比較をするコーナーがあった。『連獅子』と『石橋』、『操り三番叟』と『翁』、『京鹿子娘道成寺』と『道成寺』の3作品×2の比較(挙げた前者が歌舞伎、後者が能)。歌舞伎の衣装の方がくっきりはっきりしている印象だった。後は、『助六由縁江戸桜』の揚巻・助六・意休、『藤娘』の藤の精、『仮名手本忠臣蔵』の桃井若狭之助・高師直・塩冶判官の衣装が展示されていた。意休の四神の意匠の白虎が猫みたいで少しかわいく見えたり、通しで一通り観た忠臣蔵衣装に観劇の記憶を呼び覚まされたりしていた。こんな衣装だったなあ、桃井若狭之助の浅葱色の衣装は思いっきり性格を表しているよなあ、高師直と塩冶判官の袴の裾が長くて歩きにくそうだなあと、改めて思っていた。

 

 1階に降り、能装束の展示へ移動。一番最初の概要説明パネルで、能は大名が庇護したことで衣装が豪華な物となったと記されていたが、最初期の世阿弥の晩年は弾圧で酷い物だったような気がする。まあそういう時代も経て今に至るのだろうが、今でも能は歌舞伎よりかはマイナーな印象を拭えない。

 こちらは特定の演目の衣装ではなく、全般的に用いられる衣装の展示だった。唐織、舞衣、厚板、繰箔、摺箔、袷狩衣、袷法衣、側次、半切。個々の衣装の印象が強かったわけではなく、総体として優美さや風雅を感じていた。個を際立たせるための歌舞伎の衣装とは異なり、能という空間の中の一風景として映える衣装だと感じた。

 途中で『千代田の大奥』という江戸城大奥の暮らしを明治期に描いた錦絵シリーズの一枚が展示されていた。「御能楽屋」という、大奥での演能を描いた作品。見ていて疑問に思ったが、大奥の人間は歌舞伎を観たのだろうか。大奥でやるには歌舞伎に要する舞台空間は広すぎるから無理として、庶民芸術の要素が大きかったイメージの歌舞伎は、どのぐらいの身分の人に受け入れられていたのだろう?

 

 

 今回はこんな感じ。11月29日までなので興味のある方はお早めに。

平和祈念展示資料館

 11月17日(土)に行った博物館その2。新宿歴史博物館を出たのが15時半頃で、続けてどこかを見るには、場所によっては厳しい時間だ。新宿へと移動し、新宿で回ろうと目星を付けていた博物館リストの中から、平和祈念展示資料館へ行くことに決める。遅くまでやっている東京オペラシティアートギャラリーやNTTインターナショナルコミュニケーションセンターもありではあったが、新宿駅からの近さと初来訪の場所を巡ろうという意思からここを選んだ。

 

 新宿の目の前を通り、都庁への道を歩く。新宿住友ビルはずっと工事をしている気がする。中に入ったのは初めてで、階ごとに分かれたエレベーター配置に少し戸惑いながら、目的の階へ到着。施設の英語表記を見て、detaineeとrepatriateという英単語を学ぶ。春から英単語を少々積み上げようとしていた頃があり、見慣れない英単語についつい反応してしまう。入場は無料、館内の写真撮影は一部を除いて自由、SNSでの投稿もOKとのこと。

 

 展示エリアは、兵士コーナー、戦後強制抑留コーナー、海外からの引揚げコーナーの3つのセクションに分かれていた。まずは兵士コーナー。戦前の日本における徴兵制の説明や、出征した兵士達にまつわる資料が展示されていた。九段下にあるしょうけい館の常設展の最初の方の展示内容に近い。奉公袋や赤紙など、実物が展示されていると、確かにこの現実はあったのだと感じさせられる。

 強く印象に残ったのは、出征兵にお守りとして贈られた「千人力」の日の丸。日の丸旗中央の赤い円の周囲に、寄せ書きの容量でひたすら「力」という文字が書かれている。一見して狂気を感じた。現代社会で贈ったりすると、文字通りのパワハラになるのではなかろうか。現代的な感覚で狂気を感じたとしても、そこには出征する者が活躍できるよう、彼への力となりたいという切なる願いが込められていたわけで、それがまた一層哀しい。こういう物に対する、生理的な嫌悪感が自分の中にあるからこそ否定的に捉えているのはある。

 実際に戦地へと持参した物の展示もあったが、それ以上に徴兵検査通達書や現役兵証書、戦争が終わった後の引き揚げ証明書や検疫済証明書、戦争犯罪に関する無罪証明書といった公的な単純な書類に、戦争に兵士として関わっていた人を想像した。これらの書類が届き、兵士となり、そして帰還していったのだと。小さな紙切れで人生が動いて行ったのだと。ここのコーナーで他に印象に残ったのは、戦時中に連合国側と日本側のそれぞれが配布した伝単(ビラ)だ。拾圓札と共に、時代と共に何が買えたかを淡々と書いた連合国側の伝単に、戦時中の暮らしに思いを馳せた。伝単だから、確実性のある情報かどうかは不明だが。こういう物も全て史料として、戦争という物を明かしていく手掛かりとなるのだな。

 

 次は戦後強制抑留コーナー。戦後にソ連に抑留され、労働に従事せざるを得なかった人々の資料の展示。所々に展示されていた、当時の様子を描いた絵画が印象深い。暗く、寒く、苛酷な日々が伝わってくる。衛生状態が悪く、飢餓と酷寒に苦しんだ厳しい収容所生活。上着も白い雪に染まり、凍えた灰色の顔で豆粕を食べる人物を描いた絵画が頭に残る。そして、ジオラマで再現された部屋ごとに渡されたパンを、均等にきちんと切るかどうか監視している人々の異様な眼。極限状態の人々の姿を見た。

 このコーナーで印象深かったのは、物がほとんどない中で、それでもなおアルミから作られた手製の食器類。フォークに細かな模様が刻まれていたのに特に驚いた。ブドウだろうか?そして、厳しい中でも麻雀牌や将棋駒が手製で作られ、わずかな娯楽としてどうにか楽しんでいたという事実。昔、東京藝大美術館で見た「尊厳の芸術展」を思い出す。苦しみながらも、工芸品などを製作していた日本人。それが未来への希望となったのだろうと。

 

 最後は海外からの引揚げコーナー。思っていたよりも遥かに重い展示に、ここまでで体力も精神力も時間も結構費やし、存外時間がない。このコーナーでは、ジオラマで再現されていた引揚船・白竜丸の船底の様子か。御飯と味噌汁と沢庵が振る舞われたというキャプションの記述に驚いた。すごい豪華だな。後は著名な漫画家の中にも引揚げ者がかなりいたという事実か。引揚げてきても失業で生活苦に陥ったという話を見て、戦争という物が、戦争中だけで終わる物ではないことを改めて実感する。そしてそれは、未だに終わり切った物でもないのだ。

 

 その後は小さな企画展エリア。抑留生活を経験した四國五郎の作品展。寒い白いシベリアを描いた絵画の数々。何より印象に残ったのは、抑留体験を忘れないように残した、抑留の厳しさを表現した陶板。『首吊り』の陶板に、浜田知明の『初年兵哀歌』シリーズを思い出さずにいられなかった。戦争というどうしようもない現実の残酷さを描き出した作品群。分厚い『わが青春の記録』は、一人の人間の抑留体験として通読したいな。

 

 図書閲覧コーナーを通り過ぎ、体験コーナーで楽譜を基に録音されたラッパの音を聞く。軍事ものなどでおなじみのラッパの音はこういうメロディだったのか。この音を聞きながら、この音に一日を感じながら、戦争の日々を送っていたのか。脇にあった抑留生活で配られた黒パンの重さを体感し、博物館を後にした。

 

 

 戦争は確かにあったのだと、痕跡残る数々資料から強く実感させられる一連の展示だった。しょうけい館を訪れた際にも感じたことだが、実際に用いられた物が一番「人」を感じる。このような日々が、世界がもう来ることがないことを祈念するばかりだ。新宿駅から近く、入場料も無料なため、訪れたことがない方は是非一度展示を見に行ってほしい博物館だった。

測量×地図 測り・描き・守り・伝える

 昨日、新宿歴史博物館の企画展と平和祈念展示資料館を巡ったので、その感想を記す。まずは新宿歴史博物館の特別展「測量×地図 測り・描き・守り・伝える」から。

 

 

 12月半ばから3月にかけて休館という情報を知り、ぐるっとパスもあるし特別展も何やら面白そうなので、昼過ぎに新宿歴史博物館へ行った。四ツ谷駅から徒歩10分。存在は知っていたものの、惹かれる特別展が無かったのか今回が初来訪。存在を知った頃は新宿駅ではなく四ツ谷駅が最寄りなことにまぎらわしさすら感じていたが、東京慣れしていなかったのだろう。道中で、近傍に帝国データバンク史料館という面白そうな施設があることを知ったが、火曜~金曜しか開いていないため今日は断念。

 

 入り口から受付までの測量にまつわる写真を見て、ぐるっとパスで無料入館。地下への階段を下りながら、壁に貼られた今回の展示に目を留める。なるほど、近代測量150年なのか。全然知らなかった。地下は特別展エリアと常設展エリアに分かれており、まずは今回の目的である特別展エリアに入る。置かれていたリーフレットで地図と測量の科学館の存在を初めて知って興味を持ったが、つくば市か……。ちょっと思い立って行くには遠い。まあ、いつの日か行けたらいいな。

 

 ということで特別展。近代測量前史として、最初に江戸切絵図と伊能中図が展示されていた。相応の技術での測量という点で、伊能図から始まるのは納得感がある。江戸切絵図は武家屋敷や寺社地で色分けされているが、この時代の寺社地は流石に多いな。別々の小さな寺社が固まって存在していたのが印象的。

 伊能図に関しては、伊能忠敬の測量方法と用いた道具が展示されていた。伊能図の日本の正確性には、見る度に驚愕させられる。伊能忠敬の測量は導線法・交会法・天文測量を組み合わせた物で、繰り返し測量することで精密性を高めたらしい。海岸線や街道に目印を立て、距離と角度を測るのが測度法。山などの共通の目標物から角度を測って誤差を補正するのが交会法。で、その上で天文測量を組み合わせたと。書いてみると仕組みはシンプルに思えてくるが、高い精度で以て日本全土の広さで行い続けていくには困難なことであろう。尋常ではない精神で成し遂げ切ったのはすごい話だ。

 そして、近代測量の歴史が始まる。当初は各省で行っていた地図作成は、最終的に陸軍へと一本化される。今回の特別展の売りと思われる、陸軍の迅速測図原図の展示がされていた。明治13年から19年にかけ、関東平野のほぼ全域と、房総半島および神奈川県北部を測量した2万分の1の地図。近代的測量法によって広範囲を測量した日本初の地形図となる。街道や街並みの目標物のスケッチである視図が地図外にあるのが印象的で、こういう建物が当時街のランドマークだったのだなあと。同じ展示エリアで地租改正の地券が展示されており、なるほど土地所有の確定のために地図の存在は重要だなと再認識した。というか、地券のデザインはキヨッソーネなのか。陸軍での地図の作成には多くの画家が関わっていたというのも面白い。川上冬崖が陸軍省で測図用の図画教育に携わっていた事実とか。

 陸軍将校のドイツ留学があったとはいえ、地図表現方式がフランス式からドイツ方式へと変わった背景に普仏戦争の結果があったのは、陸軍という組織下で行われていたのも理由なのだろうか。銅版画による地図製図についての説明があった後、昭和期に発行された様々な地図のリストが展示されていた。山嶽図はまだしも、スキー用図は陸軍とそこまで関係ない気がする。色々やっていたんだな。

 三角測量の展示を見て、現代の測量技術の展示エリアへ。三角測量、地理で漠然と勉強しただけだが、改めて学び直すことになった。それにしても、明治期の水準点なんかまだ残っているんだ。現代の電子基準点を用いた測量や、測量用航空機による空中写真撮影などのパネル展示を見る。まさか、つい最近『地図中心』を読んで知ったばかりの測量用航空機の話を見られるとは。展示内容からしてそりゃそうだけどさ。国土地理院にドローンを運用する組織があるのは初耳だった。時代の流れからして当然に思えるけれど、全然知らなかったな。

 現在の試みとして、2024年までにGPSで誰でもスマホですぐに標高がわかるように構築を進めているらしい。GPSの高さとか標高とか、具体的に考えたことも無かったけれど、GPSや衛星システムで分かるのは地球を楕円体近似した表面からの高さであり、日常で用いる標高はこれからジオイド高を引いた物になるとのこと。高精度のジオイド高を構築するために、日本全国の均一で高品質な重力データが必要で、そのために工区重力測量を全国で実施していると。説明パネルからかいつまんで書いてみたが、あまりピンと来ないな、いつか勉強するか。

 

 今回の展示で、地図や測量関係者の間で有名という寺田寅彦のエッセイ『地図をながめて』を知り、展示エリアにコピーが置いてあったので読んだ。今回の展示を通して感じた、測量をして地図を作っていくという営みの素晴らしさと困難さについて、このエッセイがうまくまとめている。コーヒー一杯で買えた地図でどれだけの世界が広がっていることか。青空文庫で公開されているので、是非読んでほしい(https://www.aozora.gr.jp/cards/000042/card2508.html)。

 

 

 特別展を満喫した結果、常設展をきちんと回れなかったのが心残りか。近世までの展示のコンパクトさに、新宿だしなあと納得して終わっただけなので、もっとじっくり堪能したい。平和祈念展示資料館の感想はまた今度。