東山魁夷の青・奥田元宋の赤―色で読み解く日本画―

 感想を書くことを面倒臭がっていたら行ってから1週間経ってしまった。1個1個記録を遺して積み上げていきたい意識があるために、1つが滞ると次の場所へも行けなくなる。ともあれ、今月15日日曜日に訪れた山種美術館の展覧会の記録。

 

 

 インターネットミュージアムのチケットプレゼントを申し込んだら招待券が当たった。今までもartscapeなどで申し込んだことがあるが当選したのは初めてだ。ダメ元でも申し込み続けてみるもんだね。2枚のうちの1枚は鍋パを主催してくれた友人に贈ることにし、さていつ行こうかと機会を窺っていたら22日の会期終了が間もない時期となって焦る。寒さのままに布団で二度寝を繰り返すも、今日行かねば来週はもっと混むに違いないと身を奮い立たせて外に出た。

 15時過ぎに渋谷に着く。もっと早めに家を出て方々をついでに回りたかったが仕方ない。怠惰が悪い。何度も訪れた経験から、足が動くままに美術館を目指す。はっきりした道を覚えている訳ではないが、大雑把な方向は覚えているので無事到着。数ヶ月ぶりの来館だが、渋谷駅から予想以上に時間が掛かった。いつもは國學院大學博物館からの梯子来訪ばかりで、直に向かうことがあまり無いから感覚が違うんだな。招待券を見せ、階段を下りていく。

 

 今回の特別展は「東山魁夷の青・奥田元宋の赤―色で読み解く日本画―」と題し、画面に特徴的な色に焦点を当てて日本画を見て行く展示。最初は青から。展示室に入って正面に在ったのは東山魁夷『秋彩』。木々が生い茂る山を背景に、左手に黄色いモミジが、右手に赤いモミジが前景として描かれている。この青がもっと明るければ信号機の三色だ。東山魁夷の絵画として真っ先に思い浮かべるのは、東京国立近代美術館で目にした『道』なのだが、確かにこういう鬱蒼と広がる森の風景も作品イメージに強い。そして『年暮る』。深々と雪が降りゆく京都の街並みを、蒼く描いた作品。数年前にも山種美術館で見たことがある。蒼い世界は現実的な色ではないのだが、暮れゆく頃に雪降る景色は、この絵が心象として湧いてくる。蒼い暮れ時を照らす雪の白さ。川端康成に「京都は今描いといていただかないとなくなります。京都のあるうちに描いておいてください」と乞われて描いた作品の一つだそうだ。京都を訪れたことは数えるほどしかないが、時代が進んでいく中でこの絵画も失われた記憶の一風景の記録となっているのかもしれない。展覧会テーマに即すなら、この絵こそが自分の中の「東山魁夷の青」というイメージだと心に刻まれた。

 青の場所で印象に残ったのは、平山郁夫『阿育王石柱』の脇に添えられていた平山の言葉。長い画業の中で最も苦心したのは自分の色を創り出すことであり、画家の持ち色はその人の人生体験を映しだし、それが個性となると。画家の作品に色というイメージで語っていくこの展覧会のテーマがこの言葉に全て現れている。平山にとっては群青がそれであり、現実に無い色として現実の空間を幻想宇宙に置き換えていくことができ、瀬戸内海の小島育ちという自身の原風景にも一致すると。『阿育王石柱』は群青の背景に金の石柱がドンと描かれた作品だが、その青は青の強さゆえに自然みが無い。経文や仏画における紺紙金泥の意識が見られるとのことで、仏教という観念世界にある色として神秘的な雰囲気を醸し出している。空の青。海の青。そういう物じゃない、心の中にある深い群青。蒼い世界は何かしら深く思索を誘う物を感じさせるものなのかもしれない。

 絵としてインパクトを感じたのは宮廻正明『水花火(螺)』。高知県四万十川の投網を描いた絵画で、船の上の人物が広げる白い網が花火のように画面に広がっている。いつぞや藝大美術館で見た覚えがあるが、精緻な網の描写、幾層にも連なった水の描写が素晴らしい。

 

 青の次は緑。緑といえば植物、そしてそれが連なった森や山の色が想起される。山口蓬春の『卓上』がミュシャの絵画の様で面白かった。緑の衣装の人物が描かれた緑で縁取られた洋皿をメインに、洋ナシとテーブルが描かれた絵画。濃い緑色が目に残る。この緑のエリアで一番印象に残ったのは近藤弘明『清夜』。空も空気も暗い緑の世界に咲く花と山、空に輝く月。月にはうっすらと蛾の姿が映り、画面右下の蛾と共に目を引く。RPGの地下世界を思い出すような幻想的な絵画世界だった。花が大きく咲き連ねている風景もまた異世界を思わせる。すぐ隣に展示されていた佐藤太清の『清韻』が、一面の植物に数羽の蝶が描かれた爽やかさを感じる絵画だったのに比して現実離れした光景だ。

 

 大きな作品が展示されることが恒例のスペースに、今回は奥田元栄の『奥入瀬(秋)』が展示されていた。画面の中央を左右に川が貫き、沿岸に咲く紅葉の赤が画面一面に広がっている作品。画面の7~8割ほどが赤に覆われていて否応なく目に刺さってくる。今年は紅葉を目にする場所にあまり行かなかったな。京都で紅葉狩りをしたのは何年前だったろうか。流石にもう紅葉を見られる季節ではないが、来年には見に行けるといい。

 この絵画を見て振り返ると白い画面が広がっていた。直感的に水が落ち行く風景なのだと察することができたのは、同作者の作品を何度か見たことがあるからか。キャプションで作者を確認してやはりと思う。千住博だ。落ち行く滝には正直感じなかったが、今までの鑑賞経験からすると同じテーマなのだろうし、説明を見るとどうやら間違っていないらしい。水が落ちていく、その水しぶきの白さ。水という画面のほかに、甘い砂糖菓子のヴェールのような物が思い浮かんだ。

 

 『奥入瀬(秋)』の側から順路に従って絵画を見ていく。赤。日本で赤の風景と言うとやはり紅葉になるか。秋の風景だ。日本の四季は色風景としても豊かなのだとこの辺りで思い始める。赤々とした画面を見ていると、風景以上に画家の情念が感じられてくる。奥田元栄の言葉を見ると、赤を扱う画家としてそういう自覚はあるらしい。柴田是真の『円窓鐘馗』も赤地が目に焼き付く作品だったが、鐘馗図で赤を前面に出すのも意思が強くあるのかもしれない。

 

 黄、黒、白、銀と順々に見て回っていく。黄は竹内栖鳳の『鴨雛』のいかにもな鳥の感じを覚えているぐらい。黒では都路華香の『帆舟』が構図として面白かった。墨で描かれた黒い帆船が連なる様を描いた作品で、帆と帆の間から月が覗いている。横に連なって船体全体が見えるように描かれているのではなく、縦に帆が連なっているのが印象的。画面の大部分は黒々としているが、帆船連なっていたであろう前近代の光景が頭に浮かんできた。

 日本で白といえば雪を想うが、白のエリアで惹かれたのは上村松篁の『白孔雀』。真白い孔雀が画面いっぱいに描かれた絵画。細い尾羽が1本1本描かれ、その尾の長さと合わせて魚の骨を思わせた。綺麗な孔雀だ。銀は印象にそこまで残らなかったが、銀を表すのにアルミを貼るという技法に興味を引かれる。横山操の『マンハッタン』の暗い銀色が光る画面が銀という色の使われ方なのかと感じていた。

 

 ミュージアムショップの前を通り過ぎ、反対側の小さな展示室へ。こちらは金。森田曠平『出雲阿国』と小林古径『秌菜』が印象的。特に後者。柿を描いた絵画だが、葉の部分に金を用いている。柿を主題とするにあたって、柿を大きく描くのではなく、木として枝として葉をしっかりと連ならせ、その結果として柿の存在が目にくるようになっている。この感想を書くために秌という字を調べたが、なるほど秋という字なのか。

 

 

 今回の展覧会は秋を感じさせる作品が多かった。春めいた作品は少なかったかな。郷さくら美術館の桜の絵を見ていると春という時季にも絵画世界は広がっているのだろう。日本の四季はそれぞれ色イメージが付き、そういうところが日本画という世界にマッチしているのだなと感じ得た展覧会だった。