展覧会巡り2020年6月24日

 春らしからぬ自粛気分の日々が過ぎ去り、完全に元通りとまではいかないまでも文化的な生活を外出して楽しめる社会がある程度戻ってきて数週間。慣れてしまった閉じこもり生活から心が戻り切らず、動き出す社会に戸惑いを隠せないものの、実際の展示スペースに足を延ばし、空間として展覧会を味わえるようになったのは嬉しい話だ。まだまだ美術館や博物館は閉館中の所もあるが、この事態で崩れ切らずに存続してくれることを願う。

 興味のままに時間の許す範囲で色々回っている割に、博物館での1つの展示についての記録だけ残していくのももったいないような気がしてきたので、今回はあちこち彷徨った昨日の一日の記録を書いてみることにする。これからはこういうのも書いていこうかな。

 

 

 

 ダニエル・アーシャム「Relics of Kanto Through Time」

 まずは渋谷のギャラリーNANZUKAの展示から。NANZUKAに訪れたのは春に開催された空山基の新作展が初めてで、今回が2度目の来訪になる。「Fictional Archeology」をコンセプトに作品を創り出す現代アーティストの展示で、株式会社ポケモンが現代アーティストとコラボしたアートプロジェクトはこれが初めてらしい。

 西暦3020年に発掘したポケモン赤・緑の世界を再現したとのことで、展示会場にはポケモンの化石のような作品が何体もいた。所々朽ちて体内の鉱石の結晶が見えていて、そこに発掘物としての存在感を覚える。今ではポケモンは900種類近くいるんだったか。その中で、カメックス、プリン、イーブイなど、初代の自分がなじみ深い世代のポケモンが立体作品として表現されていることに懐かしさに胸がいっぱいになる。展示されていたポリゴンを前に思わず考え込んでしまった。人工物のポリゴンの化石化はこんな感じなのだろうか?錆びて動かなくなった機械のような何かが化石という道を辿れるのだろうか?機械生命体って化石になるのかな?そして、ポケモンカード第1弾のカメックスと英語版リザードン。パックを買って遊んでいたのは何年前だろうか。考古遺物の石版と化したポケモンカード遊戯王を思い出した。

 作品として楽しんだのもあるが、自分がポケモンという作品に触れて過ごした時間の懐かしさが、考古的発掘物という懐古的な立体作品により、相乗的に呼び覚まされた面白い時間を過ごした。二次元世界として触れてきた作品が立体化されて風化して行く(ように見せられる)ことによって、感じないようにしてきた作品内で流れゆく長い長い時間の果てを想起させられたのも興味深い。何か想像をめぐらせたところで、作品設定に無い場合に、事物が化石化するほどの未来を思い描くことは普通は無い。そこまで先になると作品と同一の世界を保っているかもわからないが、作品世界は観測者たる我々が目を向けなくとも滅びゆくまで続いていくはずで……ということを考えていた。ポケモンはそもそも化石が作中で登場し、それを復元する世界観だけど。

 

 

 「TVアニメ『BNA』の世界展~TRIGGERのDNA~ in 渋谷マルイ」

 こういうアニメとか漫画とかの小さな展示を探すのに便利なサイトが欲しい。以前に渋谷マルイで展示を見た記憶から、今何かやっていないだろうかと調べた結果見つけたので行くことにした。事前予約制でNANZUKAに来る以上渋谷に来るのは確定で、同じ渋谷ということでついでに回ることに。

 『BNA』は中盤ぐらいの話を観て興味を持ったのだが、あまり触れていないのでそこまでアニメカットを観ても感慨が無い。というか、TRIGGER作品に全然触れていなかったのを展示を見ていて思う。『SSSS.GRIDMAN』ぐらいじゃなかろうか、結構観ていたのは。舛本和也『アニメを仕事に! トリガー流アニメ制作進行読本』は読んだのだが、肝心の作品を観ていなかった。何か観ようかな。あっさりと流して終わる。

 

 

 「フィールド⇔ワーク 日々のアトリエに生きている」

 渋谷で展覧会をやっている場所を探した果てに、オープンしてからまだ行っていなかった東京都渋谷公園通りギャラリーへ。地図を片手にうろうろしていたが、入口がわからず一度は過ぎ去ってしまった。この日初めての検温を受付で済ます。平熱より低い温度が示され、この方式でいいのかと思わずにいられなかったが、まあ検温したという事実が大事で、明らかな体調不良者を弾けるならいいのだろう。

 受付横にある展示室、受付脇のスペース、少し離れた所にある展示室の3ヶ所で作品を見る。個々の作品にさしたる思いを抱きはしなかったが、作品と共に展示された作り手達を写した写真群は、完成物がドンと置かれてそれ自体生まれて存在していたかのようにともすれば思ってしまう美術作品が、人の手で作られた物なのだという当たり前の事実を思い出させてくれた。展示空間に存在している作品は、作品それ自体にアーティストというタグ情報が付されて初めから在ったようにある訳じゃないのだと。作品は作品、人は人として分かたれた物じゃないというか。そんな実感を得て早々に出た。

 

 

 青木美紅初個展「zoe」

 原宿の方へと北に歩いて行く。コンビニの脇の路地を入っていき、初来訪となるBLOCK HOUSEに到着。手前の道路では写真撮影らしきことが行われていたが、単なる個人撮影なのかもしれない。

 地下の展示室に入ると、刺繍人形が目に入る。人工授精で産まれたというアーティストが、世界初の人工授精を成功させたというジョン・ハンターを題材に、ハンタリアン博物館を訪れた経験を基に作り出した展示空間。最近、GYREで未来的なバイオアートの展覧会に行ったのもあり、生命意識に触れたくて今回来てみたかった展示だった。

 ハンタリアン美術館の展示空間を許可の下で再現したものらしい。6本足のシカなど奇形の生物の写真があることに近代の医学に思いを馳せる。人工授精を初めて成功させたジョン・ハンターの時代から、今の生命技術は本当に遠い所へ来てしまった。建物の4階にある展示室にも足を踏み入れ、まず視界に入ったサインポールにDNAと生命を感じる。生命という文脈があるだけで、サインポールは二重螺旋へと姿を変えるのだと、この時初めて気づいた。展示を見たのかという感想になるが、この部屋の壁に書かれていた、サインポールと瀉血の関わりが展示全てで一番興味を惹かれた物だった。血を抜く瀉血は民間医療として、ローマ法王に禁じられつつも床屋で行われ続けたこと。それは近代医学を進めたジョン・ハンターが止めるよう訴えても続いたと。サインポールは瀉血の際に血流を良くするべく患者に握らせた棒であると。そんな民間医療の体現物が今なお街中で動き続け、そしてDNAという命の形をそこに見てしまうという事実に驚愕していた。永遠の命をハンターは追い求めてある時挫折したという。生命という物への意識が禁忌から離れつつある今の時代、ハンターは何を思うだろうか。最後に、刺繍というメディアは何か紡ぎだす感じがして、それが生命なのが今回の展示だったのかなとふと思って場所を後にした。ハンタリアン博物館のような、あからさまなモチーフ元の無い展示を次は見てみたいな。

 

 

 「コズミック・ガーデン」サンドラ・シント展

 表参道ヒルズで展示を見る予定だったが、気が変わってスキップし、目黒駅で降りて図書館に立ち寄り、山手線で回って有楽町駅へ。ある程度周るルートを決めておくと都区内パスは便利だ。1度訪れた記憶を元に道に迷うことも無く銀座メゾンエルメスへ。いつもは店内エレベーターの利用で展示場へ行くことになるが、コロナ情勢下のために店外のエレベーターに乗る。展示を見ることだけを目的にしている以上、わざわざ店内に入りたくないので、ポストコロナ時代にもこの状態は続いてほしい。

 エレベーターを降りて正面の展示説明を読み、振りかえって息を呑んだ。説明で意識が左右されていたのもあるが、壁に広がっていた青の世界に見入っていた。青々とした地の画面に白い点が飛び散り、ヴェールのような梯子のような白い線が舞っている。飛沫が飛ぶ荒れた海原のような、星が点々とする空のようだ。自然に満ちた風景を目の当たりにして、感動する感覚に包まれていた。置かれていた長椅子に座り、画面を見る。晴れた日に原っぱに寝っころがって空を見て、流れゆく雲を眺めているような気分。しばしその時間を堪能し、入り口から右側の画面を見た後は引き返して左側の画面へ向かう。こちらは黒い地に白い*や散りばめられ、白い〇がいくつか描かれた物で、宇宙を思わせる。奥に靴を脱いで上がる空間が広がっていたが、黒いクッションはコロナ対策ということで使わせてもらえず。このクッションに寝そべり、宇宙の中に自分がいるのだと展示を実感することができれば最高だったのだが。何かを考えようとして、でも何も出てこなくて、ただ自分が矮小な何かだというチクっとした痛みを感じてエレベーターを降りて行った。

 

 

 銀座蔦屋書店

 GINZA SIXに入ると、天井から吊るされた中央のインスタレーションに自然と目が行く。吉岡徳仁の『Prismatic Cloud』を眺めながら、エスカレーターで上の階へ進んでいくこと数階分、とりあえず何か展示をやっているだろうということで立ち寄ることにした銀座蔦屋書店にたどり着く。

 外から見ても何かやっているのを察し、よくわからないながらに井⽥幸昌作品集刊⾏記念「Crystallization」を見た。特装版は描き下ろされた作品を200分割された物が表紙となっており、分割前の原作品を目にできるという趣旨の展示らしい。寡聞にして知らない方なのでさっと見ては通りすぎ、出た所にあるコミック売り場のラインナップを確認する。コミックのラインナップが銀座らしさとは何かを表している気がして好きだ。いかにもなオタク感が脱臭された感じが、自分が足を向ける他の場所ではあまり見ることが無くて新鮮で面白い。

 THE CLUBのライアン・サリバン個展に行こうとして、事前予約制なのを見て断念。一日の行程を組む段階で予約するべきだった。スターバックスの脇でやっていた品川亮個展「Nature’s first green is gold,」を見る。日本画らしい画面の中に、日本画とは離れた大胆な筆触の花が咲いていて、ミスマッチなようで馴染んでいるけど違和感をそこはかとなく感じる作品が、今の絵画として出していく一つの手段なのかなと。美術を見るよりは書店を楽しむ時間の方が長かった気がする。

 

 

 梅津庸一キュレーション展「フル・フロンタル 裸のサーキュレイター」

 時間があればgggで「TDC 2020」を見る予定だったが、時間が無かったので駅へ向かう。神田駅へ移動し、日本橋三越本店まで歩く。移動距離がそんなに変わらないだろうから、道がわかりやすい東京駅から歩く方がよかったかなと方向音痴な身として思いつつ歩いていた。東京駅周辺は何度も歩いたことがあるが、神田駅近辺は不案内だ。危惧していたほど迷うことなくあっさりと到着。中央ホールの『天女像』をじっくりと見たのは初めてだ。何度か来たことがあるはずだが、エレベーターにすぐに乗ってしまうので目玉のこの作品をあまり目にしたことが無い。像を正面にすると、百貨店といういかにも豪奢な空間に身を置いていることを感じ、自らの場違い感を覚える。百貨店で展示を見る時はいつもこの場違い感と戦っている。

 何階にギャラリーがあるかきちんと覚えていなかったので、エスカレーターで階ごとに案内を確認しながら上って行く。微妙な入りづらさに臆さず、コンテンポラリーギャラリーに入っていく。展示の案内を受け取り、作品前に説明を読むか……と読み始めたところで、情報の物量に圧倒され、内容的に展示見ないとわからないなと察したので作品を鑑賞する方に意識を集中する。いわゆる既存の美術批評の文脈上の整然とした配列ではなく、造形にフィーチャーして作家性や作品を見て行こう、そのために色々並べるよという展示とざっくりと把握し、作品を眺めていく。個々の作品名がそれとすぐにわかる形で配置されていない。章立てごとの説明キャプションの情報も読んで頭に入ってこない。何だかわからないことだらけの中で、順番に作品を見て行くが、鑑賞というほどに至っていたかどうか。とっかかりのある美術作品ではない、よくわからない不気味さすら感じ得る空間の中で、唯一安心感を覚えたのが見覚えのある麻田浩の作品であり、それが自分にとってのこの展覧会の第一印象に終わった。また伺う機会があれば、展覧会以上に個々の作品に向き合っていければいいのだが、今週末で終わってしまうのでおそらく再訪機会はない。

 

 

 

 タイムスケジュールをきちんと組んでいれば、もう少し回ることができたのだがまあ仕方ない。癒しを得られたかはわからず、美術が好きで真摯に見ている訳でもないが、それでもこういう一日を過ごしたくなる気分が時たまやってくる。博物館もまた行きたいね。またいつの日か。