1月のまとめ

1月に行った展覧会まとめ

 

東京国立近代美術館工芸館 パッション20 今みておきたい工芸の想い
国立近現代建築資料館 吉田鉄郎の近代 モダニズムと伝統の架け橋
銀座メゾンエルメスフォーラム 「みえないかかわり」イズマイル・バリー展
ギンザ・グラフィック・ギャラリー 動きの中の思索―カール・ゲルストナー
pixiv WAEN GALLERY しゅがお初個展「MIMI STREET」
GYRE GALLERY チェ・ジョンファ「Blooming Matrix 花ひらく森」 展
Bunkamura Gallery ART BAZAR 2020
国立公文書館 初づくし-初にまつわる江戸時代の行事・風習-
米沢嘉博記念図書館 おしぐちたかしコレクションから見る海外マンガ展
明治大学博物館 神田発信!大学スポーツの軌跡
とらのあな秋葉原店B うたわれるものイラスト展2020
ジーストア・アキバ  ドキドキ★ビジュアル★展覧会2020
東京国立博物館 出雲と大和
武蔵野ふるさと歴史館 お蚕さまの家

 

精神的に出無精だったために大して展覧会にも行かなかった。規模の大きな展示にもそこまで行かず、消化不良感が否めない。

 

 

1月に読んだ本まとめ

 

相戸結衣『流鏑馬ガール! 青森県立一本杉高校、一射必中!』
大崎善生『将棋の子』
河合ゆうみ『花は桜よりも華のごとく』1巻
最果タヒ『きみの言い訳は最高の芸術』
ネヴィル・シュート『渚にて-人類最後の日-』
中村文則『悪意の手記』
宮澤伊織『裏世界ピクニック』4巻
モリエール『人間ぎらい』

『20世紀の歴史家たち(1) 日本編(上)』

 

出無精分だけ本を読めたらよかったが、そこまで読めなかった。棚で目についた小説を手当たり次第に手当たり次第に読んでいるが、読み切れず消化不良な物が多いのは残念。読みたい興味ある新書類も結構な数メモしているので、読む本が無くなることはない。

 

 

トーハクの感想を書くまで置いておいた結果、1月まとめを書くのが2月入って一週間後になったのは反省。溜めていくのは良くない。

出雲と大和

 前回から一挙に空いてもう2月まで来てしまった。あまり外出意欲が湧かずに読書に勤しんでいたのだが、そこまで読んだ本が多い訳でも無く、時の流れに気づけば1月は過ぎ去っていった。合間に行った展覧会では、代官山ヒルサイドフォーラムでやっていた「夢の実現」展が面白かった。実現してみた色彩も作品も、それはそれで元作品とは分かれてまた別の作品としての価値を持つんじゃないかと思うと、作品を作品足らしめる真正性とは何なのだろうと考えてしまう。前置きはこれぐらいにして、今回は25日(土)に東京国立博物館で鑑賞した展覧会の話。

 

 昼に赴いた国立公文書館の企画展に始まり、米沢嘉博記念図書館明治大学博物館の企画展、秋葉原のイラスト展2ヶ所を徒歩で巡り、疲れの蓄積と共に日は落ちて行った。東京国立博物館は21時まで開館しているので時間に余裕はある。晩御飯を摂って少し休憩して上野公園に向かって歩くこと十分ほど。ようやく今日の本命である東京国立博物館に到着した。時間は18時45分ぐらい。宵闇の中に灯りが光る宮殿のような佇まいに感動しながら、チケットを見せて入館。招待券をいただいたので入館料は無料。トーハクの特別展を見るのは何年ぶりだろうか。時間があれば是非とも常設展も見たいが果たして時間はあるか。平成館で展覧会のチケットをもいでもらい、エスカレーターを上っていよいよ展示場フロアへ。

 

 

 最初の挨拶を読む。令和2年(2020)が『日本書紀』の編纂された 養老4年(720)から1300年だと。そういえばそうだったね。というか展示の枕詞にも書いてあった。『日本書紀』の冒頭部分に超常世界の「幽」に当たる出雲大社と現実世界の「顕」に当たる大和の話が記されており、その対比が今回の特別展のコンセプトらしい。

 

 まずは第1会場。入るなり巨大な3本の木の柱がお出迎え。往古に出雲大社本殿を支えていた柱材の一つ、宇豆柱だ。宝治2年(1248)に遷宮した際の物。出雲旅行の際にも目にしたがやはり大きい。木の生々しさが、確かに建材として時代を経てきたことを感じさせる。これをよくぞ島根からトーハクまで運んできたなあと、運搬・設置の労を想像した。

 最初のエリアは第1章「巨大本殿 出雲大社」として、出雲大社本殿に関する史料と宝物の展示。宇豆柱の左手には、今回の展示コンセプトの部分の出処たる記述が記されている『日本書紀』の部分が展示されていた。目印は付いているので、確かに「幽」と「顕」という文字は見えるのだが、読みたいその周辺の記述の意味がよくわからない。翻刻されていないのもあるが、翻刻されていたとして『日本書紀』を読解できる次元に自分は達していない。一解釈という形でもよいので、字が現れる一帯の翻刻と簡易訳はあると良かった。出雲大社オオクニヌシが「幽」、大和の天皇が「顕」を司るという説明はあったのだが、史料上の記述を知りたかったので。

 第1章の説明を読み、奥へと進んでいく。宇豆柱と同じく出雲大社の本殿を支えていた柱の心御柱がまたもやどーんと現れたが、初見の宇豆柱のインパクトにはかなわない。右手に宝物が、左手には古代の出雲大社本殿の復元模型が展示されていた。出雲大社の復元模型を見、展示空間の宇豆柱と心御柱の間の幅は実際の物を反映しているという記述を見て思わず後ろを振り返った。模型とキャプションの記述からすると、心御柱を中心に9本の柱が出雲大社本殿を支えており、そこから長く長く続く階段が降りていく。展示空間の中に想像の出雲大社を顕現させ、そのあまりの大きさに言葉を失った。なんと巨きな世界なのだろう。長い階段はエストニア国立博物館みたいなのだろうか。

 いよいよ展覧会らしい細々した物の陳列を見て行く。まずは出雲大社境内遺跡の出土品から。銅戈・勾玉に始まり、臼玉・勾玉、須恵器、土師器などが続いていく。勾玉は英語でcomma-shaped bead、臼玉はmortar-shaped beadというのか。綺麗な緑の勾玉と、赤い瑪瑙の勾玉が展示されていた。臼玉と勾玉のセットのキャプションで、大和産の滑石製の玉類と出雲産の瑪瑙の勾玉とあったが、産出地の特定はどうなされているのだろう。考古学に詳しくないが、大和産だとはっきり述べられるのはなぜなんだ?

 さらに奥に進んでいくと、遷宮記録の文書類が壁側に、鎧や本殿模型、太刀が内側のケースに入って展示されていた。これらの文書類が残っているおかげで、今でも出雲大社遷宮の様子などがわかるんだなあ。やっぱり記録は残していくべきものだな。

 

 第2章に入る。「出雲 古代祭祀の源流」。加茂岩倉遺跡でまとまって発見された銅鐸の山が埋まっていた様子を再現したコーナーが導入として入る。写真撮影が可能だったので、折角なので撮影。密集して埋まっていたのが窺える。

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埋まる銅鐸山

 まずは出雲地域が方々と交流があったことを示す資料群から。南海地域産であろう貝輪と土笛、人面付きの土器、分銅型の土製品。日本海に面する立地から、古くから日本海を介した交流が行われていたと。それはそうだろうなあ。

 進んで広い部屋に出た。左手に数多の銅鐸が、右手には銅剣が何本も飾られている異様な空間が広がっていた。予想より遥かに数が来ていてびっくりした。島根県立古代出雲歴史博物館に訪れたことがある以上、銅剣や銅鐸の物量で圧倒されることは無いだろうと思っていたのだが、東京でこれだけ目にすることができようとは。出雲の博物館ではさながら武器庫のように銅剣が壁一面に展示され、銅鐸も膨大な量見ることができる。

 改めて銅鐸を見て行くと、大量生産品のシンプルな模様の物と、一点ものの贅沢に模様が施された銅鐸があることに気づく。伝香川県出土の銅鐸は、6つの区画全てに絵が描かれた豪華な銅鐸だった。また、隠岐諸島の海土町で出土した銅剣が展示されており、島嶼部でも青銅器祭祀が行われていたことを知る。そこまで伝わったのか、現地製造なのかはわからないが。

 しかし、これだけの物量の青銅器が発見されている出雲地域は、各地に先駆けて青銅器祭祀を辞めたらしい。そして、墳丘墓を作る時代へと変わっていく。青銅器を介したカミマツリが墳丘墓を舞台とした王が執り行うカミマツリになったとキャプションにはあった。個人的に今回の展示のキャプションで初めて驚いたところだった。だったらなぜこれだけ青銅器が発掘されるのだろうか。出雲という立地か、それだけ青銅器祭祀が盛んだったからか?ともあれ、人、そして古墳の時代へと移っていったタイミングで、展示も幽たる出雲から顕たる大和へと移っていく。

 

 第3章「大和 王権誕生の地」。ここでは主に奈良県の古墳で出土された品々が展示されていた。展示空間の中央には何枚もの三角縁神獣鏡が並ぶゾーンが。壁際の展示から見て行くことにする。まずはメスリ山古墳の出土品から。玉杖と鉄弓・鉄矢が展示されていた。古墳時代の副葬品としてあまり聞いたことが無いと思っていたら、後者は他に類例のない物だとか。青銅器である銅剣が祭祀具として数多出土されているのは流石に知っていたが、鉄器で武器を象った物もあるんだね。鉄弓は弦を引くことができないので、まあ儀礼的な物だろうと。大きな円筒埴輪も展示されていた。ドラム缶が3つ並んでいるかのようだ。

 次は島の山古墳出土品が並ぶ。腕輪型の石製品の石釧・鍬型石と車輪石。貝殻型腕輪を祖型とする物が、古墳時代に石製品として写された物であると。貝殻のままでもよかったものが、石に写されて石製品として残ったことには何か意味があるのだろうか。貝殻は外界交流を伴う必要があるが、交流なく内部で生産できるようにした物なのか。逆に言うと、貝殻型の腕輪類がかつてこの地域まで伝わっていたということにもなるか。車輪石も貝類祖型の石製品で、埋葬された内部に貼り付けられ、邪を払う役割があったと推定されているらしい。見た目がフジツボみたいで、発掘された様子がびっしりいるフジツボにしか見えなかった。

 中央の鏡エリアを見て、居並ぶ埴輪達を眺めて第1会場は終了。出雲旅行で大体見たし、改めて特に感動もないかなと出雲エリアについてはそこまで期待していなかったのだが、見たことがあろうとも柱と模型からは太古の世界の大きさを感じさせられる。

 

 第2会場へ。引き続き第3章。入ってすぐの所に古墳期の造船部材と、それを基にした模造船が展示されていた。こんな船であちこちと交流を持っていたのだなあ。ここからは、古墳時代の交流を窺わせる舶来品が続いていく。驚いたのは、ササン朝ペルシア系のガラス碗が展示されていたこと。古墳時代の国際交流のイメージがあまり強くなかった(倭の五王ぐらいか)が、まさかペルシア系の物まで日本に伝わっていたとは。中国・朝鮮・日本の狭い東アジアの古墳時代観が、一気に拡がった瞬間だった。まあ中国の交流度合いを考えると不思議ではないのだが、ペルシア品といえば正倉院まで時代が下るので、それだけ新鮮だった。ここで展示されていて面白かったのは火熨斗。皿の中に炭を入れ、熱や重さでしわを伸ばす……要はアイロン。古墳時代版のアイロンということで、なんだか一気に世界が身近に感じられた。遥か昔からあるもんだね。

 奥に進むと、石上神宮の七支刀が展示されていた。こんな物まで来ているとは!トーハクすごいな。有名な品を見て驚いたのはこの展覧会で唯一だった。一歩先のエリアには同じく石上神宮所蔵の大きな鉄盾が展示されており、中国戦国時代イメージの盾が日本にも伝わっていたのだなあと。伝わったのが自前なのかはわからないが。

 その先には壮麗な馬具が展示されていた。精緻な彫金細工は、今目にしても色あせない高い技術を感じる。出雲の博物館で見たような気がする太刀を見て、子持ち壺にアート的な奇抜さを感じて先へ進んでいき、いよいよ時代は仏教の時代へ。

 

 第4章「仏と政」。政治や権力の象徴が古墳から寺院へと切り替わり、展示物の多くは仏像だった。最初に展示されていた飛鳥寺塔心礎埋葬品は、玉類が含まれるなど古墳の副葬品と共通する物が見える。島根県鰐淵寺の観音菩薩立像が展示されており、飛鳥時代の7~8世紀にはもう現島根県地域に仏教が浸透していたのだなと。純粋な疑問だが、薩摩に仏教が浸透したのはいつなんだろう。北の方は?

 ここの展示エリアで一番印象に残ったのは、當麻寺持国天立像。一見して、なぜ武将の像が仏像エリアにあるのか疑問を抱いた。髭を蓄えた写実的な面貌や、ポーズを取らない直立した姿は、中国の武将を思わせる像にしか見えない。なるほど、足元には確かに邪鬼が踏みつけられており、ああ四天王像なのだと。すごく丸まった上に乗られていた。

 伎楽面を目にしたり、唐招提寺の四天王像や島根県萬福寺の四天王像を見て、その雄々しさと展示空間に感動したりしながら、最後のエリアはあっさりと過ぎていった。どうも仏像に対する興味があまり強くない。一番最後には法隆寺金堂壁画の複製陶板があり、これまた撮影OKだったので撮影する。そういえば法隆寺は行ったことが無いな。

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法隆寺金堂壁画複製陶板

 

 閉館まで1時間も無いが、折角来たので見そびれていた「博物館に初もうで」を急いで見る。ネズミと大根の取り合わせで大黒天を想起させる判じが面白かった。常設展は見たかった刀剣エリアが残念ながら見られないので、近代美術のエリアを眺めて退館。充実した一日だった。

 

 

 さっさと感想を書くつもりが、気づけば行ってから2週間近くが経とうとしている。展示を見ながらメモしたことに基づき、記憶のままに書いたわけではないから大きく違うことはあまり無いとは思うが、直近の感動やら思考やらはもはや消えようとしている。結局、「幽」と「顕」について具体的なイメージを抱けたかというとそこまでではなかったが、古墳時代が地方の狭い閉じた世界ではなく、開けた大きな世界だったのだと認識を新たにできたことは意味があった。常設展を見るのに必死だったからミュージアムショップを覗けずに終わったが、行けばよかったな。

12月のまとめ

12月に行った展覧会まとめ

 

田端文士村記念館 芥川龍之介の生と死~ぼんやりした、余りにぼんやりした不安~
TAV GALLERY 岡田舜個展「RETROJECTIVE」
とっとり・おかやま新橋館 漫画刀使ノ巫女ミニ複製原画展
とらのあな秋葉原店B よむ展5
東洋文庫ミュージアム 東洋文庫北斎
山種美術館 東山魁夷の青・奥田元宋の赤―色で読み解く日本画
早稲田大学歴史館 人形劇、 やばい!
三鷹市美術ギャラリー 壁に世界をみる―𠮷田穂高
太宰治文学サロン トカトントン~音を巧みに、心に残す~
調布市文化会館たづくり 市川銕琅・悦也父子展
南極・北極科学館 南極隕石展―やまと隕石発見50周年―
三井記念美術館 国宝雪松図と明治天皇への献茶
国立映画アーカイブ 日本・ポーランド国交樹立100周年記念ポーランドの映画ポスター
銀座蔦屋書店 「令和・京・美人」展

 

もう少し色々行きたかったが、外に出る気分に成り切らなかったのと年末閉館の影響からあまり行けず。折角のぐるっとパスも消化不良になってしまった。

 

 

12月に読んだ本まとめ

 

住野よる『君の膵臓をたべたい』
津村節子『瑠璃色の石』
葉山嘉樹『セメント樽の中の手紙』
ヘルマン・ヘッセ『クヌルプ』
宮本輝『血の騒ぎを聴け』
楊逸『時が滲む朝』
吉村萬壱『ボラード病』

山本浩貴『現代美術史 欧米、日本、トランスナショナル

 

空いた年末に何冊か小説を読んだ。『現代美術史』を読むのに時間を取られ、図書館で借りた物も碌に消化しきれず、長めの小説を読めなかったのも残念。色々不満足なまま一年が終わり、新たな一年がもうすぐやってくる。展覧会にせよ本にせよ、もっと色々な物に触れていきたい。

国分寺市のロケットマンホール

 28日。年末の土曜日。辛うじて展覧会を見られる場所も存在する年内最後と言っていい日。そんな折角の日に、ふと思い立ったので国分寺市にマンホールカードをもらいに行くことにした。マンホールカードは存在を知って以来、西東京に赴くたびに何枚か入手し(東京都内でマンホールカードを配布している地域は東京西部が多い)、いつしか集めようという意識が芽生えてしまった。

 いや、元々は殿ヶ谷戸庭園に行こうというのが主目的だったのだ。しかし、冬に行ってどうするんだという思いと寒さから、国分寺駅に着いた頃にはマンホールカードに意識を支配されていた。

 

 調べたとおり、cocobunjiプラザの5階に配布されていることがわかる場所があり、職員さんに言って受け取る。土日も配布しているのはありがたい。ダムカードはダメな場合もあるし。

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これで7枚目のマンホールカード

 マンホールカードと共に、国分寺駅の北側にロケットマンホールなる物が12枚も設置されており、その先に「日本の宇宙開発発祥の地」顕彰碑があることを示した地図をもらう。顕彰碑はついでに見るつもりだったが、その道中にロケットマンホールがあるのは初耳だった。折角来たのでロケットマンホールも制覇することに決める。

 

 cocobunjiプラザのマンホールカード配布所の前には、ペンシルロケットのレプリカと松本零士の色紙が展示されていた。同じフロアを歩いていると、エスカレーターの脇にH-2Aロケットの模型が。国分寺が宇宙開発発祥の地であることをマンホールカード経由で知ったばかりなだけに、これだけ国分寺にロケットが溢れていたことに驚く。

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 建物を出て駅の北の方へと歩いて行く。地図を見ながらすぐに1つ目を発見。イプシロンロケット。漠然と名前を知っているだけのロケットだ。マンホールの側にあった看板から道沿いに歩いて行けば大体揃うことを確信する。

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 そのまま、H-ⅡB、H-ⅡA、J-1、H-Ⅱとどんどん見つけては写真を撮っていく。すれ違った親子連れの子供が「ロケットマンホールだ」と言っていたのから察するに、地元では知られた存在なのだろう。H-Ⅰ、N-Ⅱを撮影して横断歩道を渡り、N-Ⅰ、M-V、M-4S、L-4Sと撮影して最後のペンシルロケットのマンホールを撮影。顕彰碑も視界内にある。短い道程だった。

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どうやら番号を見るに、過去へとどんどん遡っていくようになっていたらしい。宇宙開発顕彰碑をスタートに巡っていく物だった。ということでゴールの日本の宇宙開発発祥の地の顕彰碑。ここでも松本零士が。すぐ近くには、第1号国民栄誉賞受賞として早稲田実業高校に贈られた王貞治の碑があった。国分寺市について何も知らないに等しかったが、少しだけ身近にできた短い街歩きだった。

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ポーランドの映画ポスター

 引き続き26日木曜日に行った展覧会の記録。三井記念美術館で展示を見終った後、大雑把な方向だけ定めて国立映画アーカイブへと歩いて行った。曲る場所に少し迷いもしたが、道中のあちこちにあった近隣地図に救われた。新宿とか渋谷にこそこういう物はあればいい。7階へとエレベーターで昇り、ぐるっとパスを見せて展示室へ入館。

 

 

 今回の目的は常設展示ではなく、企画展である「ポーランド映画のポスター」だけなので常設展示コーナーは全てスキップ。以前来た時にじっくり見て、興味深い物は写真に撮ったが、ここの常設展示は情報密度が濃いので何度か来てもいいかもしれない。常設展示の最後にある企画展示コーナーにあっさりと到着。

 

 第1章は「ポーランド映画のポスター」。1950年代後半に台頭したイェジ・カヴァレロヴィチやアンジェイ・ムンクアンジェイ・ワイダといった若手映画監督はポーランド派と呼ばれたが、1960年代に活躍したグラフィックデザイナーも同じくポーランド派と呼ばれ、彼らによるポスター作品が展示されていた。印象に残ったポスターを挙げていく。文字だけで画像が無く、古文書のような雰囲気を醸し出す『尼僧ヨアンナ』。3名の登場人物を湖の魚として太い線で大胆に表現した『水の中のナイフ』。煉瓦の壁に上半身が浮かび上がった女性が描かれ、その左側に植物の蔓が這い回り、右側に水の渦が巻いている『家族生活』。頭蓋骨の顔が眼球となったような『砂時計』。人の頭部のような場所の外周にに嘴を持った生物がおり、大小の円が連なる『イルミネーション』。『家族生活』、『砂時計』、『イルミネーション』の3つは連続して展示されていて度肝を抜かれた。そして、『ダントン』。人の胸元から盛り上がってきた赤い手がその人の顔を鷲掴みにしているというポスター。映画として知っている物は映画に詳しくないのもあってあまりないが、映画ポスターとして目に焼きついた物はいくつも産まれた。

 

 第2章は「日本映画のポスター」。ポーランドのデザイナーによってデザインされた日本映画のポスターであり、当時の日本のポスターが展示されていたわけではない。同じく印象に残った物を。日の丸が浮かび、縦横線がいくつか配された意匠に、左に握られた銃、右に握られた刀を描いたスタイリッシュなデザインの『用心棒』。五輪の真ん中の円が大きな日の丸となり、その下に「OLIMPIADA W TOKYO」と記された『東京オリンピック』。棒人間が棒人間を持ち上げる姿をデザインした『姿三四郎』。真っ黒の地に、日の丸を頬に描かれた女性の横顔が暗い水に浮かぶ『日本沈没』。おもちゃみたいな新幹線が描かれた『新幹線大爆破』。逃げる人が大きく描かれ、背景ではメカゴジラがビームを放つ姿が小さく描かれた『メカゴジラの逆襲』。特に印象に残ったのは『姿三四郎』か。なるほどとちょっと思ってしまった。

 

 第3章は「世界各国のポスター」。ポーランドにおける映画ポスターは、製作国のプロダクションが映画宣伝に介入できなかったことにより、実験的で多彩な物が産まれたとのこと。割かし好き勝手やれる環境があったと。最後となったこの第3章ではヨーロッパやアメリカ映画など世界中の映画のポスターの展示。真っ赤な地に、巨大な黒い椅子とそこに座る小さな人物を描いた『就職』のポスターが、あらすじの説明と噛み合っていて良いなと感じた。この展覧会の宣伝チラシにも使われた、ボタンに綴じられた服が顔となっている『暗殺の森』のポスターや、男性の顔の上半分が積み重なって一匹の虫となるデザインの『醜い奴、汚い奴、悪い奴』が印象的。特に後者の何とも言い難い不快感が湧きあがってくるデザインは、タイトルからしてよく出来ている。最後の方で見覚えのあるポスターを1枚見つけた。『ノスタルジア』のポスター。デザインを手掛けた人物を見て、既視感の理由がわかった。武蔵野美術大学美術館で展覧会を見たスタシス・エイドリゲヴィチウスのデザインだ。こんな所でこんなすぐに再開するとは。

 

 こういうのは文字でとやかく言うより見に行くのが一番で、会期も3月までとまだ時間があるので是非見に行ってほしい。ぐるっとパスを使わずとも入館料は安い。1月28日から後期展示として一部のポスターが入れ替わるそうなので、再訪しようかと考えている。

 

 

 これで木曜日に回った展示は終わり、2ヶ月のぐるっとパスライフも終焉を迎えた。ぐるっとパスで割り引かれたり無料となった入館料はしめて7850円。使い潰せたとは決して言えはしないが、最低限以上に元を取れたのは良かったか。

国宝 雪松図と明治天皇への献茶

 気づけばもう一年が終わろうとしている。年末年始はほとんどの美術館・博物館が閉館となり、どこに行くでもなく湧いた時間もだらだら過ごすうちに消えていく。せめて年内に行った展覧会の感想は年内に消化すべく、出品目録とメモを引っ張り出してブログの編集画面を開く。31日の深夜に書きながら年末の消え去っていった時間を想う。ということで、ぐるっとパスの利用期限だった26日木曜日に行った展示の記録を書いていこう。

 

 ぐるっとパス利用期限の26日。未だ使っていない無料券の中から、入館料と展示内容と交通の便から行き先を前日に決定。東京都庭園美術館や横浜方面に出ることも考えたが、セットで2ヶ所巡れて時間次第では銀座に出ることもできる三井記念美術館と国立映画アーカイブに行くことにする。相も変わらず家を出るのが遅くなったが、神田駅に到着したのは14時20分過ぎ。駅を出て方向に一瞬迷ったが、14時半頃には無事三井記念美術館に到着。ぐるっとパスで入館してチケットをもらう。ぐるっとパスを入り口でもぎってもらった後にチケットをもらうのも不思議な気分だ。

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来館記念とはっきり書いてあるのは珍しい気がする

 

 

 まずは展示前室として、三井家に関する説明がある部屋。その辺の説明は昔何度か読んだので飛ばすとして、展示されていた『牡丹鶏図剪綵衝立』を鑑賞。三井高福絵・三井鋹作。剪綵という物を初めて知った。下絵を描いて紙で裏打ちし、線描を残して紙を剪抜き、残った線に金泥を塗り、剪抜いた部分に裂地を貼って作るらしい。よくわからないが、金で縁取られた牡丹や鶏はそこが周りよりも浮きあがったように見えた。中国に起源はあるものの、三井家に独特な技法とのこと。

 「ごあいさつ」を読み、この展覧会が毎年恒例の『雪松図屏風』公開に合わせ、令和改元にちなんで天皇関係の所蔵品を展示した展覧会であることを初めて知る。雪松図を眼にすることが来館目的のほとんどだったが、なるほどそういう展覧会なのか。

 

 展示室に入って最初に展示されていたのは『青磁二見香炉』。波の模様の彫りの上に夫婦岩の火屋が乗っている、なんともめでたい作品。この展示室で一番印象に残ったのは『菊置上蛤香合』。大蛤の貝殻に菊を大きくあしらった香合で、貝殻の表面に大輪の菊が咲いた作品。天皇にまつわる展示ということで菊の意匠の作品が多く、今回の企画テーマが献茶であることから茶道具の展示が多い。というかこの展示室1と次の展示室2はほとんどが茶道具だった。茶道具は茶道への造詣が皆無なので、いまいちどう見ていいのかがわからないままだ。物として綺麗だなと感じる物は少なくないのだが……。

 

 展示室3は三井記念美術館おなじみ如庵の再現ケース。国宝の『志野茶碗 銘卯花墻』に、よくわからないが茶道で使われそうな茶碗だなあと漠然とした思いを抱く。ちょっとしたお茶会のレベルからでも、茶という世界に触れてみようかな。茶道具の展示を見る度に考えることではあるが、どっぷり浸かっていくと色々と大変そうだ。
 

 展示室4。開けた大きめの展示室で、明治天皇御東幸から明治天皇と皇后への献茶の記録までの資料がずらっと並ぶ。まずは明治天皇御東幸にまつわる絵画の展示。天皇を中心として絵画いっぱいに行列が描かれている様には、御東幸が如何に一大行事だったことが窺える。月岡芳年が描いた『武州六郷船渡図』はその道程の大変さが伝わってくる。当時は橋が無かった多摩川を渡る際、急遽23艘の川船で橋が架けられたという話から、連なる船橋の上を東幸の行列が渡っていく様子が描かれている。今ほど交通整備が進んだ時代じゃない。

 東幸の次は、新橋―横浜間に鉄道が開業した際に明治天皇が鉄道開業式に臨席したとのことで、それにまつわる資料の展示。鉄道の様子を描いた絵画はともかく、鉄道開業式の際にご休憩用として用いられた椅子が展示されているのには驚いた。よくぞそんな物が残っていたものだ。三井に伝わったのは、三井高福が東京市民代表として挨拶したからではないかとのこと。

 その後は三井家が運営に携わっていた京都博覧会に関する資料展示。ここで展示されていた京都博覧会への鳥の出品目録が面白かった。三井高朗は飼鳥が趣味であり、1878年の京都博覧会では飼っていた鳥150羽余りを出品したとのことで、その出品目録の展示。真っ先に挙がっていたのは鸚哥。これはわかる。リストを眺めてくると現れる孔雀と真鶴の文字には少々驚く。真鶴を飼うイメージが全く湧かない。これが富豪の世界か。

 そして、今回の展示のメインである明治天皇への献茶に関する展示が現れた。1887年の京都博覧会で明治天皇が臨幸し、その際に三井高朗と高棟が亭主として献茶が行われたと。献茶の席の囲い屏風として使われたのが、今回の展覧会の目玉である国宝、円山応挙『雪松図屏風』。屏風の金の上に黒で描かれた松とそこに載る白の雪。色合いとしてはシンプルな作品だが、冬にあっても力強い松の姿を感じる。展示室が空いていて、見る時間を充分に取れたのは幸いだった。雪松図の他にも、この献茶会で用いられて茶道具の類が展示されていた。三井高朗の飼鳥趣味に通じる『真鶴羽箒』があったのが面白い。北三井家の庭で飼われていた真鶴の羽根で新調した羽箒とのこと。やっぱり想像できない世界だ。

 明治天皇への献茶の展示の後は、1890年の京都府高等女学校での皇后への献茶の際に用いられた道具類の展示。1890年4月27日に皇后が行啓し、三井高朗と高棟が献茶の席を設けたという。『堆朱梅香合』が見事だった。展示室を出る辺りには、三井高福による『牡丹孔雀図剪綵衝立』が展示されていた。

 

 展示室5。皇室の保護を受けた画家・工芸家である帝室技芸員の作品の展示。柴田是真、竹内栖鳳横山大観、安田靭彦、小林古径など有名な人物の作品が並ぶ。柴田是真による『稲菊蒔絵鶴卵盃』が印象に残る。鶴の卵殻を加工して作った盃で、金の蒔絵で菊の枝と稲穂が表わされているが、外側の意匠以上に綺麗な卵形の内側に金が綺麗にまとまっているのが素晴らしい。

 

 展示室6。『三井好 都のにしき』という浮世絵の展示。三井呉服店の新作カタログと言うべきもので、四季のファッション12枚と目録の計13枚のうちの6枚が展示されていた。四季の風景の中に在る人物を描いた作品群で、衣服に焦点を当てているという点ではファッション誌のような物なのかもしれない。肉筆と見紛うほどの驚異的な精緻さと線の細さの作品群だったが版画らしい。描かれていたのは和服がほとんどだったが、「春の野」という1枚に洋服の姿の子供が描かれていたのを見るに、洋服も販売していたのだろうか。

 

 最後の展示室となった展示室7。ここでは北三井家寄贈の古筆年鑑「たかまつ帖」から天皇と皇族に関係する古筆切が展示されていた。最初は伝聖武天皇筆の大和切。これまた恥ずかしい話ではあるが、書をどう鑑賞するのがいいのかよくわからないものあってさっと見て終わる。背景に色々描かれていたり、紙の感じが違う物もあったりと個性を感じる物もあったが、筆の字の優美さや風雅はよくわからない。

 最後に展示されていたのは三井家当主による絵画群。素人絵画と言うレベルではない気がする。三井家当主が描いた絵画から令和改元にふさわしい作品が展示されているという触れ込みだったが、『楠木正成像』が展示されていたのだけはよくわからなかった。天皇に関する作品ではあるのだろうが。ウェブサイトには新春にふさわしい作品とあるな。まあいいか。

 

 

 三井家と天皇の結びつきもとい三井家が美術へと手を伸ばしていた巨大な存在だったと感じる展示だった。展示物は館蔵品だしね。当主自らが筆を執って作品を描くほどに美術への造詣が深かったという事実は興味深い。そこまで芸術に浸かった富豪が現代日本に現れるのだろうか。

人形劇、やばい!

 ここ数ヶ月程寝落ちして電気を点けっぱなしのまま土曜日を迎えている。起きる時間が早いならまだ良いのだが、それでいて起床時間がそれほど早くない。その上、布団の暖かさを甘受していると二度寝・三度寝と繰り返し、覚醒するのがいよいよ午後にまでもつれてしまう。午前から予定を組んで何処かへ出向くべきだな。

 

 21日土曜日もそんな朝を迎え、ようやっと家から出たのは14時過ぎ。展覧会の案内を見た時から絶対に行くと心に決めていたものの、機会に恵まれないまま会期終了間際となってしまった早稲田大学演劇博物館の企画展を見に行くことにした。電車を乗り継いで早稲田駅に到着。早稲田の地に足を踏み入れるのは3~4年ぶりぐらいか。駅からどちらの方向へ進めばいいかすらもはや忘れていた。当て勘で歩みを進めると見覚えのあるキャンパスに無事辿り着く。キャンパスマップで目的地の早稲田大学歴史館の場所を確認して歩き出した。早稲田大学は大きいな。大隈重信像を目にするのも久々だ。

 道に迷うことも無く早稲田大学歴史館に到着。事前に確認するまで、ずっとえんぱくで展示をするものだと思っていた。初めての建物だが、常設展の早稲田大学の歴史云々にはあまり興味をそそられず、今回目的としていた企画展示の部屋へとさっさと向かう。ちらりと常設展を覗いたが、早稲田大学の大学としての所属意識というか学生愛の強さを感じる濃密な展示のようだった。こういうのは誰かとてきとうに駄弁りながら軽く見て行きたいな。

 

 

 企画展示は建物の中の一室だけだった。早稲田大学演劇博物館による特別展で、人形劇に関する展示。 第1章は「人形劇、かっこいい」と題して、日本に現代人形劇が紹介された頃の説明と資料が展示されていた。1923年に麻布の遠山静雄邸の試演会で若者らによって『アグラヴェーヌとセリセット』という人形劇が披露されたのが、日本における現代人形劇の始まりらしい。日本における人形劇といえば江戸期に盛況だった人形浄瑠璃が思い浮かぶが、こちらは舞台に人形だけが見える糸操りの人形劇のようだ。ヨーロッパの現代演劇から影響を強く受けていたのも特徴で、とりわけエドワード・ゴードン・クレイグの『俳優と超人形』が重んじられたと。「俳優は去り、その地位に無生物の像がつかなければならない。彼がもっと良い名前を手に入れるまで、我々は彼を超人形と呼ぶ」という過激な主張がなされた演劇論。人間の演者による劇の先に、人間を超えた存在として演劇空間に人形が演じている劇を見て、それを目指していたのだろうか。

 この上演の前日譚として、1894年にダーク座という人形劇一座が来日した話も解説されていた。不気味な骸骨が複数現れて舞い踊る演劇で多くの観客を集めたそうだ。ダーク座の操り人形が展示されていたが、思いっきり骸骨。展覧会チラシに載っていた奇妙な骸骨はこれだったんだ。糸が結ばれた場所は多く、うまく操ればかなり自由な動きをさせられただろう。実際、首や手足の骨が空中に乱れ飛んでは瞬時に元に戻る「骨寄せ」という仕掛けは観客を驚嘆させたらしい。

 このダーク座の演劇を見て、5代目尾上菊五郎が演劇を真似て『鈴音真似操』という、糸操り人形を演じる演目を披露した話が興味深い。人間の肉体を超越した人形を人間が演じた訳で、人間によって操られる人形を人間として演じたのだから。そういえば、今年6月に国立劇場で観た歌舞伎の『神霊矢口渡』でも、演者が浄瑠璃人形のように振る舞う「人形振り」と呼ばれる演出が取り入れられていた。人形がする人形的な動きを人間がしていることはやはり新鮮だった。人の人らしい豊かな動きのバリエーションに対して人形はあくまで人形としての物らしい動きをし、物として人を超越した動きや人に近しい動きをするのが人形で、それが人形劇の魅力なのではないかと思う。人間が人形に擬して演技することで、逆に人が物として動く面白さがあるのかなと。まとまらなくなったが、非人間的な動きを人がしていることによる意外さや面白さはあり、物として人を擬する人形を人間が真似ようとする二重構造に意味があるのだろう。

 あとは、小絲源太郎のお人形座の第一回公演の番組で『正チャンの冒険』の人形リストにリスやボウフラがいたのに気を引かれた。人間以外の人形も当然使われていたんだね。ボウフラの人形ってどういうのなんだ?同じ公演では『文福茶釜』もあった。これも人じゃない人形だな。

 

 第2章は「人形劇、動員される」。人形劇の政治性や社会性の側面を表した資料が展示されていた。遠山静雄邸の試演会に参加したメンバーを中心に結成された人形座の旗揚げ公演『誰が一番馬鹿だ』は、資本家が労働者達に糾弾された挙句、自身のこれまでの振る舞いを自戒して幕切れという内容。人形座の公演に足を運び、人形劇に強く関心を持っていた前衛芸術家の村山知義の美術志向が、三科で人形劇に携わった後にMAVOを経て最終的にプロレタリア芸術に至ったという話からも、人形劇で培われた批判精神が生きているように感じる。

 戦時中に人形劇が政治利用として動員されたという説明も興味深い。1941年、大政翼賛会を後ろ盾とする移動人形劇場設立。1942年、翼賛会部下に人形劇研究委員会が発足。国威発揚の道具として人形劇が動員されていく。都市・農村を問わず大人から子供まで参加者自身が人形劇の担い手となることが前提とされた。手軽に使える指使い人形が作られて教本が整備され、集団で劇を作り上げていく喜びを分かち合い、一丸となって戦時体制に挑む協同精神を培うための物となっていく。

 戦前は左翼思想の宣伝、戦時中には戦時思想の醸成。娯楽でありながら、糸の操り手によって付される属性の何と違うことか。演者が人ではなく、物たる人形であるからこその性質なのか。現代人形劇が日本へ導入されて広まっていったことに人ではない革新性という意識が前面にある訳で、単なる娯楽以上の存在であることを人形劇は求められているように感じる。

 

 第3章は「人形劇、かわいく過激」。かわいらしい見た目で強烈なメッセージを発するという人形劇の性質について、『チロリン村とくるみの木』と『ひょっこりひょうたん島』を挙げて解説していく。各々の人形も展示されていた。野菜と果物が共存する世界を舞台とし、野菜はプロレタリア、果物はブルジョアという設定が付された前者。現実の問題への問題提起が散りばめられ、身分や価値観の違う者がいかに共生するかまで取り上げた後者。人が言うよりも、人形たるキャラクターが言うからこそ許容される。かわいらしさに惑わされ、苦い問題は緩和されていく。

 『ひょっこりひょうたん島』からサンデー先生とドン・ガバチョ人形が展示されていたが、そのデザインに工夫があるという話が興味深かった。大量の人形が必要となることが想定された結果、こけしのような回転体に衣装を胴体に貼り付ける人形を作り上げた。衣装を縫い上げるのではない。これはろくろを回して作れる形態で、外注して作ることができる人形となっていた。木製人形を作っていた頃に、生産を容易にしたことで独特なデザインが産みだされたという話。

 

 第4章「人形劇、グロくて深い」。別役実の『青い馬』と寺山修司の『狂人教育』を挙げ、グロテスクな人形劇を示す。展示されている『狂人教育』の女性人形のグロテスクさにまず目が行った。『青い馬』は、リンゴ盗難の嫌疑をかけられた弟の無罪を証明するため、姉が弟の腹を掻っ捌いて「リンゴが入っていますか」と問うも、この行動で姉が殺人罪に問われ死刑に科せられるという話。『狂人教育』のあらすじは次の通り。家族の中に一人「気違い」がいることがわかり、誰がそうなのかを探りあう。娘の蘭を見て怪しんだ家族が同化して一つの人形となり、やがて家族の人形が出来上がって斧を一振りして蘭の首を飛ばす。人形劇だからこそのグロテスクさ。人では無いからこそできるグロテスクさの一方で、では人が演じるということはどこに意味があるのか、そして人形劇としての物語を紡ぐことはどういうことなのか。

 

 第5章は「人形劇、ひろがる」。現代人形劇における実践に関していくつかの例を挙げる。1975年に劇団風の子が発表したアニメイム。アニメーションとパントマイムを組み合わせた関矢幸雄の造語で、俳優が棒や輪やボールを組み合わせて物に命を吹き込んでいく。人形劇ではないが、物に魂を宿すという営みとして挙げられていた。

 人形劇を街づくりの核とする例も産まれているという。1979年に始まった人形劇カーニバル飯田は、1999年にいいだ人形劇フェスタとして市民が創る人形劇の祭典となって今に続く。2017年初演の『巨大人形劇さんしょううお』の映像が流れていたので観たが、複数の人によって操られる縦3m×横4mの巨大サンショウウオは、複数人で舞わせる龍のような物で、一般に想起する人形のイメージとは大きく異なっていた。

 

 最後に、糸操り人形を実際に体験できるコーナーがあったのでやってみた。糸がつながった十字型の場所を持ち、パネルにあるように動かしてみる。十字架を前にするとお辞儀をし、後ろにすると座る。左右に傾けるとそれぞれの足で足踏みをする。予想していたよりも仕組みはシンプルで、簡単に動かしてみることはできたが、これを命を吹き込む所まで持って行くのがプロであり修練が求められるのだろう。

 

 人が演じること。人形が演じること。人形が演じるからこそ意味があること。人形劇として観たことがあるのは浄瑠璃を何度か観た程度で、人形といえばチェコアニメの人形が思い浮かぶ身だったが、人形劇という視点から演劇における人間と物について考える機会が与えられた興味深い展示で、小規模ながらまとまっている良い展示だった。